2006年03月05日

入隊につき、一時休止とさせていただきます。

半年間で数十冊のレビューを書けたことに満足をしているかといえば嘘ですが、一応の成果をあげることができましたので、くよくよ悔いに浸ることなく、兵役に行ってみたいと思います。休暇とか部隊内でのネット使用などがありますので、ちょこっと更新するかもしれません。時々、のぞきにきてください。
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2006年03月04日

「海をわたる蝶」:童の頃の私はただの童で、今と変わりなくって、すごいもののすごさを知らず…

子供頃、大阪の東住吉区に住んでいた。後にサッカーの長居スタジアムが建てられる長居公園のすぐ前で、当時住んでいた10階建てのアパートの一番上の階から、決して小さくない長居公園の全景が鳥瞰できたことを覚えている。その長居公園には、植物園と自然史博物館があって、私は時々、夏休みなどは、一週間に一回ほど出かけたりした。

大学の頃生物学を専攻した私の母が、自然史博物館の巨大な蝶のコレクションを眺めながら驚嘆したりした。その頃は、まだ私の国には本格的な自然史博物館がなかったから、母には余計、印象的だったはずだ。無論、私は蝶よりは恐竜に興味があったし、大体生物学や博物学に興味はまったくなく、花の名前もろくに覚えられないやつだったので、ただ色とりどりの珍しい植物やややこしい名前をした滅びた種の標本を眺めながら、時間の過ぎ行くのに従順すぎるほど順応していた。

その自然史博物館の蝶のコレクションに深くかかわっていたのが、本書「海をわたる蝶」の著者である日浦勇だった。彼は自然史博物館が長居に移転する時の学芸員であり、蝶の研究者でもあった。本書はそんな彼のフィールドワークを元に、蝶が海を渡り、生殖地を求める活動を手堅く整理する。そしてそれを元に、それまでの博物学とは違う第四紀(100万年前から今まで)学としての自然史を日本に打ち立てた人である。そしてその蝶のコレクションこそが自然史の普及教育に励んだ著者の、自然史観を象徴する転じである。逆に、本書はその新たに移転する博物館のディスプレーを考えるために書かれたということが解説にも書いてある。そして「博物館の展示を全面更新する予算がいつまでたってもつかないので、幸か不幸か今でもその展示を見ることができる

もしかすると、30年前に出版された本書は、もはや「歴史的な意義」というのしかない本かもしれない。だけどある人が誠実になにかに取り組んでいたことへの証明というのははっきり残ったり、彼の意図しない読まれ方=彼のディスプレーを観て育った人の戯言があったりする。

私にとって自然史博物館というものはそういうものであったのだが、実はこれは結構革命的な博物館であり、母が驚いて当たり前のある意味、身近なグレイトネスだった。そして私はそれをそれと知らず戯れに浪費しただけの童だった。そして世界全般について他人に誇れるだけの知識が無い限り、永遠に童の視線でしか世界を見れないと思うと少し悲しくなる。
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2006年03月03日

「半分の月がのぼる空」:この世に残ると言うことを、伊勢に残るということを、意思を残すと言うことを…

主人公は、高校生。閉塞感の漂う三重県の伊勢市に住む、ごく普通の高校生。

面白おかしげな友人たちもいるし、ひと癖もふた癖もありそうな心優しい大人たちに囲まれている。彼は裕福な家の子供でもなく、むしろ貧しいほうで、いつかは東京に進学しようと思うけど、そんなに前途有望というわけでも努力の人というわけでもない。そして彼はある日、心を開かない病弱な美少女に恋をする。これはそういうありふれたラブストーリ。

病弱である少女は、生を否定し、そのまま死に逝くことを願う。
漠然な夢をみる少年は、大学は伊勢を出て上京することを希望する。

その二人が恋をする。そして少女は生を受け入れ、少年は彼女とともに伊勢で生きることを決心する。不器用な物語だ。主人公の若干気取った「十代感」丸出しの一人称や、ありふれた記号的な登場人物たちは、いわゆるライトノベル系の典型であり、だからこれを優れた物語というつもりも無い。だけどそういう形式でしか語れない物語があると私は思う。無論、私は、キャリアウーマン(女性総合職)の話はドラマかマンガでしかできないと思い込んでいたのだが…ご存知の通り、今度の芥川賞作品「沖で待つ」が女性総合職の物語だった。

全6巻のうち、物語は5巻で終わり、6巻は後日談である。作者によると
限りある、終わりの見えている人生にどう向かい合っていくかを書いてみたかった。覚悟に至る日々を書いてみたかった。死ぬことではなく、生きることを書いてみたかった。
(略)いつの時代にも必ず書かれる、ありふれた青春小説でしかない。あえて繰り返します。この六巻は、ただの後日談です。十八歳になった男の子と女の子の、平凡な日常が描かれているだけです。そしてこれが、半分の月という物語をスタートさせるとき、僕が必ず書こうと思っていた「ゴール」です。
ということだ。そう、この物語は、平凡と生と日常を肯定するためのものがたりである。

普通、闘病モノでは、生きることを肯定&恋愛の成立か、もしくは死で終わる場合が多い。それは「閉じられた」世界の出来事である。だけど「半分の月がのぼる空」は、そうではない。もっと広い「開かれた世界」に対する肯定。病弱なヒロインが生きることを単に肯定するのではなく、もっと広い、たとえばこの世界自体を主人公と二人で肯定するまでの物語のように思える。

…無論、上京をやめさせるほどの運命の女の子なんて、それこそ夢物語でフィクション的なことかもしれない。だけど、それこそが小説の効用なのだろう。

なんだか支離滅裂な話になってしまった。結局、この感覚を理解するためには、読んでみるしかないだろう。そして里香(ヒロイン)に萌えるしかないだろう。
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2006年03月02日

「ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝」:ケチャップの皇帝萌え

まず本書は三つの意味で驚かせてくれる。まずは、バーナンキがFRB議長に指名されてから一ヵ月半で書き上げられたこと、帯に「日銀はケチャップを買え!」と赤い文字で書いてあること、最後にバーナンキってカッコイイけどハゲ気味だということ。

そして本書は、三つの意味で役に立つ。まず、現在進行形のマクロ経済の議論に加わるための基礎理論を丁寧に説明してもらえること、バーナンキという学者の研究をおさらいしてもらうこと、そして最後にどうやら日銀はケチャップを買うしかないと説得されること。

たしかに日銀はケチャップを買うべきだ。日銀はケチャップを買ったり売ったりしながらインフレーションをコントロールすべきであり、超長期的なデフレーション下の日本では、インフレーションを起こすことが重要である。そして日銀はハインツのケチャップではなく、もっと日本のケチャップを買うべきだ。結局、公共事業とか商品券ばら撒きとかと同じようにケインジアン的総需要(=GDP)の不足を補うためにインフレターゲッティングは成される。

だけどアメリカやEUなどの「なだらかなインフレ状態」にある国々がインフレターゲッティングを選ぶことと日本という稀有な「継続的デフレーション」の国がインフレターゲッティングを選ぶことではまるで意味が違うのではないかと私には思える。「なだらかなインフレ状態」からインフレターゲッティングに突入するのは、ある意味、庭園に元々ある木々の成長をコントロールして、手入れして、熊とか犬模様の木々を造りたいと思うことで、「継続的デフレーション」という状況下でのインフレターゲッティングは、森の木々をまず刈って、それから庭園を造ることからはじめるように聞こえる。そして私は、各個のインフレターゲッティングには賛成するが、デフレーション脱却のためのインフレターゲッティング(デフレ脱却)とその後のインフレターゲッティングは別物として扱われるべきであるような気がする。

無論、デフレーションは消費意欲を沈ませ、現金への信仰を深めるだけで経済が回らない原因になること自体が問題だ(そもそもそんな自転車操業みたいな資本主義がいけないという話になりかねないけど、まぁそれはエロとかグロとかが好きなフランスのバなんとかというおっさんに任せることにしよう)。

だからインフレターゲッティングを日本で実施するしかない理由は一つで十分なはず。インフレターゲッティングの一般的な効用を肯定するわけではないが、デフレ脱却が必要だという意味では、インフレを目標とする(ターゲッティング)派に私も属する。

デフレーションのせいで実質金利は(景気が加熱しているわけでもないのに)意味も無く高くなるばかりだが、名目金利をマイナス(借りれば借りるほどお金をあげる)にしたらモラルハザード、すなわち制度の意図せざる用途ができ得る。なので実質金利を下げる残された唯一の方法は、いったん安定したインフレを起こして名目金利をプラスに転化させた後に、デフレ期待のために冷え込んだ消費をインフレ期待を利用して促進させて、実質金利を下げる圧力源とする。金利が上がっているのに金利が下がるというシチュエーションを理解させるのがちょっと難しい。そしてインフレ目標を達成できない場合は、「ジャンクばかりいる日銀」(byバーナンキ)の市場調停力が無いと思われるor無いことがバレルのが問題かな?少なくともゼロ金利などという自縛的なシチュエーションを肯定できる日銀ってバカじゃないのか?という面では、ベン・ケチャップの皇帝・バーナンキさま萌えである。

だから最近、日本の新聞にちょくちょくでる「デフレのせいで日本人の金利所得はこんなに減ったのですよ」という論は実に簡潔で、インフレターゲッティングなしでもデフレ退治のための共有された理解ができあげることができそうだ。その場合、実質的にはインフレが公共のターゲット(目標)になることは十分ありえる。無論、その場合は、中央銀行の独立性など世論の前で踏みにじられることになるのだが。無論、このコンボが実際に成りたつのかはまた別の問題だけど、延々と続くデフレというおバカなシチュエーションよりはずっとましなはずだと私には思える。

そして思うに、この本は、バーナンキ萌え成分が足りないね。(断言)

さて、ではなぜ素人の私がこの本を買うことになったのかについて最後に書こう。まず、バーナンキ就任のニュース(「ヘリから金をばら撒け」発言に注目していた)を見てた母にインフレターゲッティングと90年代末の日本の商品券ばら撒きと何が違うのかと聞かれたとき、一応答えたえることはできたのだが、もうちょっと理論的な面からこの問題を知る必要性を感じたのと、本書の著者である田中秀臣が「世界で最初のバーナンキ本である」と書いているからだった。だから日本旅行の折に本書を買った。そしてまた下らぬものを買って来たと母に叱られた。まったく、世の中というものはうまくいくことが少ないのだ。それは経済学の世界でも、私の部屋の増え続ける本たちとの戦いでも、正しきことが成されることは少ないし、正しいことが正しい結果を導くこともまた少ない。というか、ジャンクだらけの日銀などといっている人(この場合は、著者の田中)が、日銀にインフレターゲッティングをやれというのはちょっとおかしいね。

日銀が公約を守る意思と能力が無いと思っている人たちが、日銀がバカ正直に公約を守ることが最低限の必要条件である理論を打ち出すってこと自体が矛盾じゃないのかな?日銀が公約を守らないor守れないと分かった場合は、ハイパーインフレがおき得る(可能性として)ことは否定できないはずなのだが…。




追記:田中秀臣という経済学者(のブログ)をなぜ知ったかと言うと、もちろん彼の冬ソナ論経由であったけどね。
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2006年01月29日

日本探偵小説全集6 小栗虫太郎集:ここまでセカイにたいする悪意を明確に打ち出した小説はそうあるものじゃない

本書は、日本推理小説の歴史に残る奇作「黒死館殺人事件」や日本人は一人も出てこない密室犯罪モノである「完全犯罪」などの小栗虫太郎の代表作を含む。いろんな人によって何度も何度も語られている作品と作者なので、私などに語れることはほとんど何もない。だけどあえて屋上屋を築く無謀さを発揮するのなら、それはそれでこの偉大なる滑稽なる作品に一つの賛美歌(供物でもいいけど…それは別の機会のために取っておくとして)をささげることくらいはできるだろう。まず、1933年のことである。

1933年の小栗虫太郎のデビューはある意味伝説的な趣を持っている、といっても有名作家なるものは非凡なるデビューをするのが常であり、江戸川乱歩が「悪霊」の連載中に逃げ出し、それを埋めるはずだった横溝正史が結核で倒れたことによって、代役のそのまた代役と選ばれたのが小栗であった。正確に言うと別名義で、以前作品を発表していたりしたらしいのだが、一応のデビューのこのときの「完全犯罪」からとする。

この中国の片田舎で少数民族の共産主義兵団の将校たちが西洋人の館に泊まる最中に行われた密室殺人を扱っている「完全犯罪」なる短編は、今の読者からしてみるとそんなにおかしくもなんともないトリック&設定なのだが、当時としてはものすごいものとして認められたという。

なぜ「完全犯罪」は日本ではなく、外国(中国)にその背景を置いたのだろうか。この問題に直接答えを出すことはできないが、いくつか仮説を用意することならできる。まず遜来の日本家屋においては「密室殺人」なるものが不可能だといわれていたことが一つの理由だと思われる。まるで「日本語でロック(orラップ)は可能なのか」という論争と似ていて、推理小説が輸入された頃には、完全なる密室の中での殺人なるものが日本式家屋では不可能であるという説が有力だった。なぜなら襖と床下と天井裏で部屋がつながっている日本式家屋は西洋の「鍵」の部屋とは違い密室を・りにくかったからである。だからこそ日本家屋での密室殺人を扱った横溝正史の「本陣殺人事件」や高木彬光の「刺青殺人事件」が高く評価されているのである。

それはもし、推理小説なるものが日本で成立していたら問題にならなかったはずであり、あくまでも「学ぶべき先達」が西洋の大作家たちであったことから、彼我の文化的違いがあったことからその学習がうまくいかなかったことの象徴的な問題である。これで乱歩の小説が本格というトリック中心の見方をするとつまらない駄作であるという例の問題を説明することもある程度できると思う…

だからその違和感を和らげるために舞台とそのディテールを西洋・外国的趣向で埋めるという荒業がでる。日本語のラップがおかしいと思う日本人は英語でラップするしかないじゃないか。(ラップなんてしない人が大半なのだろうけど…)小栗のやりかたは方法論的に正しく、実際に小栗はデビューの次の年に同じ路線の「黒死館殺人事件」という最高傑作をものにする。

無論、「完全小説」という小説が実際そういう理由をもって、中国を背景に選んだのかは分からない。しかし小栗の外国趣味、もっと正確に言うと西洋オカルト趣味はこのデビュー作から現われているし、数少ない彼の本格推理作品の中で日本の白系ロシア人を扱った「聖アレキセイ寺院の惨劇」やハムレット劇の上演をネタにした「オフェリヤ殺し」などに引き揃がれていいる。

徹底的に西洋の意匠を用いたこの「推理」&「密室」小説は、読者としては一回も行ったことのない西洋(っぽい雰囲気)のファンタジー的な効果ももたらす。私たちが通常ファンタジーとよぶ異世界の話、すなわち私たちの世界からいろんなものを除して異質感を出す引き算的ファンタジーではなく、いろんなものを足して足して足して幻惑を誘い、既知を惑わし、彼岸へと誘う足し算のファンタジーである。実際の小栗は「黒死館殺人事件」を書いた後にも関東から外へは出たことがないらしい。晩年にはマレーにも行ったらしいけど。

普通、小説に於ける衒学主義は、主題への導きや雰囲気作りに用いられることが多く、推理小説における衒学主義の代名詞であるS.S.ヴァン・ダインの作品でもそれ以上のことはない。しかしながら作品の流れを壊してまでくどいほど続けられる探偵役の薀蓄は、暴力的とまでいえるだろう。乱歩によると「黒死館殺人事件」は「文学以前の素材の羅列」であり、「作者が彼自身の探偵小説のみならず、世界の探偵小説を、この一作によって打切ろうとしたのではないかと思われる」らしい。

普通、小説なるものは上手なものでも下手なものでも、ストーリとテーマで成り立っていて(学術用語のストーリとテーマとは違うけど…)それらのために作者も、素材も、背景も、登場人物も、ほかのいろんなものも奉仕している。だけど、この作品と作品内の「セカイ」はプロットと装飾(衒学主義のディテールのこと)だけで成り立っている反「推理小説」であり、乱歩が一目で見抜いたとおり「作者が彼自身の探偵小説のみならず、世界の探偵小説を、この一作によって打ち切ろうとしたのではないかと思われるほどの悽愴なる気迫」が確実に内在している。これは確実なる悪意であり、「セカイ」を終わらせようとする気迫がある。

だから彼の絶筆が終戦直後の未完成の長編「悪霊」であったことは、小栗のデビューのきっかけとなった乱歩の「悪霊」とのかかわりだけではなく、その「悪意と気迫」がいったいどこへ至る予定だったのか、それがなぞであるからにして残念であり、また幸いである。だってもしそんな「梟の巨なる黄昏」(By笠井潔)みたいな小説読まされても困るし…、それ読んだらもう他の本読めなくなりそうだし…。


Further Reading
1.「黒死館殺人事件について」:黒死館殺人事件の以上なるまでの薀蓄満載ぶりはここを読むだけでいや!というほどわかります。
2.「昂奮を覚える
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2006年01月27日

容疑者Xの献身:確かに独創的なトリック、で、それがどうした?

これは本書の序盤でわかることなので伏せておいても意味が無いので、素直に内容をばらすと、本書は好きな女性の犯罪を隠すために自ら泥を被る「純愛」男の話である。今まで人間が描けてないという理由で直木賞をもらえなかった東野圭吾に直木賞をもたらした作品なのだからどんなものなのだろうかと期待して読み出した。たしかにこれは佳作である。このトリックに前例があるかもしれないが、すべての要素が無駄なくトリックをかっこよくキメルために奉仕しているし、探偵が犯人を尊敬しているからこそトリックを見破ることができたというのもまたいい。

だけどこれが世間で言われているような傑作であるかといえば、やはり否というしかないのだろう。小説の中ならどこにでもいそうな、でも実際はあんまりいない、紋切り型の単純な人物ばかり。たしかにそういうやり方はトリックを際立たせる役割があることは確かだし、私とてそれに突っ込むような野暮な性格は持ち合わせていないのだが、これを読んで「純愛です、感動です」というのはいかがだろうか。図式としての「純愛」はたしかにあったし、作者の提示する読み方(なるものがもしあるのなら)はそうだろうけど、私は正直あまり心に感じるものが無かった。

そして二つの意味でまったく救いのないエンドには呆れた。お涙頂戴と犯罪は罰せ無ければいけないという考えがなんの考えもなくただ配置されていること以上の何にもなさそうなエンディング。まったく人間が描かれていないことで有名(?)な綾辻行人の「十角館の殺人」あたりのラストのほうがよっぽどこれまで絶え間なく提示された類型的な「人間」の典型から逃れた(あれはあれで漫画チックなのだが…)

「人間を描けている」要素はたくさんあるけど、これじゃただ数式を並べ立てているのとなにが違うのだろうか、と私は思ってしまう。東野圭吾最高傑作はやはり「悪意」なのだろう。無論、この作品のトリックがダメだと言っているわけではない。全体的な完成度も、エンタテインメントとしての価値も、純愛純度も文句のつけようのないものだろう。散々いったけど「人間」を描けていたのもある意味事実である。だけどそれが「類型」的な、カッコつきの「人間」であると私には感じられる。


それと「同じ人間を二度殺すことはできない」とかいっているけど、警察なめているよね?これって…。


Further Reading
1.「悪意」:私が選ぶ東野圭吾の最高傑作
posted by 白紙状態 at 21:07| ソウル 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月25日

3月6日以降のこのブログ

3月6日に陸軍に入隊することになりました。兵役は二年です。3月6日以降は、軍隊内の任務や環境によってこのブログの更新頻度が変わるはずですが、それらについてはまだなにもわからないのでなにも確実なことはありません。しかしブログを閉じるということは考慮しておりませんので、更新頻度が少なくなってもブックマークは残しておいてください。
posted by 白紙状態 at 09:20| ソウル | Comment(1) | TrackBack(0) | 告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月17日

超殺人事件−推理作家の苦悩:おめでとうございます。

前回、「言壺」に関する文章で、叙述支援ソフトのことを若干書いてみた。それから東野圭吾の「超・殺人事件」という短編集のことを思い出したところ、本日、東野圭吾が直木賞を受賞したというニュースが流れ…なんとなく書くことも無いのに書棚にあった東野作品を取り上げてみる。

この短編集には、いろんな戯画化された推理小説家がわんさか出てくる。ある小説家は税金対策のために、連載中の小説のプロットを捻じ曲げ自分のハワイ旅行やリフォーム費用を経費で落とそうとしたり、理系の薀蓄をこれでもかと言うほど詰め込んだ怪作とか、高齢化社会の影響として読者も作家もみんな呆けてしまった推理小説業界の話とか、読者の代わりに本を読んで、それのあらすじと評価と書評をでっち上げてくれる機械がついには文学賞の傾向と対策を作ってくれる「超読書機械殺人事件」などがある。

東野圭吾は、きわめて器用な作家で、「悪意」みたいなきわめて「心理」的な作品を書くこともできるし、「白夜行」や「秘密」みたいなセンチメンタルな作品、「どちらかが彼女を殺した」のようなきわめて緻密な犯人当てパズラー、「あの頃ぼくらはアホでした」のような爆笑青春エッセー、「名探偵の呪縛」や本書のような推理小説・業界の約束事をパロディにして笑うということができる。間口の広い作家だ。

その中でも本書はきわめて異質で、「名探偵の呪縛」では推理小説のお約束をパロディにしたのだが、今度はそれ以上に推理小説を取り巻く人々をパロディとした。曰く、「日本推理作家協会、除名覚悟!作家、書評家、編集者みんなまとめてメッタ斬り」らしい。直木賞に初めて落選した頃に書かれているので、実はそれが理由だったりするのかもしれない。類似作の竹本健治の「ウロボロス」シリーズは実在の推理作家を登場させて笑いを取る趣向だが、本作はそれでもなく、推理業界のお約束を笑うのだから実にマニアックだろう。

…面白いのだが、書くことがない…。とにかく本日のテーマはたった一つ。東野さんおめでとう。七年目の正直ですね。
posted by 白紙状態 at 22:22| ソウル | Comment(1) | TrackBack(1) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月16日

言壺:あまり面白くない突っ込みを少々

物語の形式が複雑・複合化し、「ワーカム」という「マルチメディア」風のワープロの進化形みたいなものなしでは物語を紡げない近未来。或る作家が突然、「私を生んだのは姉だった。姉は私をかわいがってくれた。姉にとって私は大切な息子であり、ただ一人の弟だった」という文章を思いつき、「ワーカム」に入力しようとしたところ、「ワーカム」のチェック機能(英文ワープロの文法チェック=F7みたいなもの)に入力を拒まれた。意味が通らないという。「ワーカム」はいろんな代案をだして文章「姉=母」を拒む。そして世界は揺らぎ始める…という表題作が印象的な神林長平の短編集。ちなみに「言壺」は、第16回日本SF大賞受賞作品。

私は神林の愛読者なのだが、二つの面からこの作品が非常に気に入らない。

まず、「ワーカム」という古臭いマルチメディア&インタラクション主義に基づく機械が鬱陶しい。まるでCD-Romが最初に出てきた頃もてはやされたハイパーテクストなり、動画+文章なり、サイベリアなりの「映画+小説」、「音楽の出る小説」のような古臭い意匠は、もういい。ダサすぎる。その進化形であるはずの(いわゆる)ビジュアルノベルの愛好者である私がいうのだから間違いない。

でも「ワーカム」的な叙述支援機能はこれからも利便さを増すだろう。(いまでもブログペットやドクターバロウズなどの原始的叙述支援ソフトがあったりする)

二つ目は、「私を生んだのは姉だった」という文章がなぜ「非論理的」で「言語空間を揺らす」のか私にはわからない。通常の社会では認められていないが、父の再婚相手が姉だということは物理的には可能である。動物の世界ならもっとありえるだろう。

シャチが話者の小説で「私は生まれてこの方ずっと海の中で、海の水を飲みながら暮らしてきた」といえないなんてシャレにもならないじゃないか。これくらいのことで混乱を起こしそうなソフトを売るのは背任行為ではないのか?言葉で表わすことのできるすべては論理的である、という考え方を哲学から引く必要もない。一ビット言語しか表わせないソフトを日本語(2ビット)のワープロとして売り出すようなバカっぷりではないか?

神林は「現実と非現実の揺らぎ」が持ちネタ(繰り返すモチーフ)なのだが、この作品はあまりにも考えなしに自分の持ちネタを繰り返しているだけではないのか?


追記:昨年は一冊も新作を出していないのだが…なんかあったのかな?神林くん。


Further Reading:
1.「戦闘妖精・雪風(改) 」:神林入門にはうってつけの作品。
2.「小指の先の天使」:同じく言葉・現実の問題についての短編集。
3.「ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951」:現実とか非現実とか論理とか言語についてSFチックに考えるとき、この方を避けては通れないでしょう。
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2006年01月15日

民族という虚構:結局、虚構Aが善く、虚構Bが悪いという理由はなんなの?

民族と言う虚構」は、数年前に読んで、内容自体はそれなりに面白いのだが、言っていることのバックアップがまったくと言っていいほどダメだったので、そのまま駅のゴミ箱に捨ててしまった。この文章は、そのときのメモに手を加えただけなので、口調が砕けていたり、同じことが繰り返されていたりする。

パリ第八大学心理学部助教授で波乱に満ちた人生を歩んだ(らしい)小坂井敏晶の本。本屋で見かけたこれの韓国語版は真っ黒の表紙に細めの赤い文字で決まっているなかなかすごいセンスだったことを覚えている。

本書の内容と言えば、ここ数十年、みんなが「民族」というタームについて繰り返し言っていること、すなわち「民族の同一性」というものは虚構である。しかしこれは民族が現実的な力を行使しないということではない。人間社会は虚構でできているし…という話。当たり前で、理解しやすく、現代社会に求められているシャベリをしている。

だけど、この線をもう少しだけ延長しちゃうと「人間の集りとは虚構である」ということで、この言い回しは家族や国家やその他の諸々も虚構だと証明することができる。たとえば「家族=虚構」説。当たり前すぎて全然ショッキングじゃない。「空気には酸素が含まれている」くらいのインパクトしかない。無論、小坂井もそれくらいは知っている。だけどちゃんとした論考できているならべつにかまわないが、後に書くけど、この本は致命的なミスがある(と私は思う)。

この本はまず「人種」という概念を潰すことから始める。まず、大学の人類学の一番最初に学ぶのが人種なんてあまり科学的意味のない便意のための暫定的な分類でしかないと学ぶ。小坂井の議論はそれの延長線上にある。白・黒・黄の人種区分は、19世紀の西洋の人たちが西洋=白人中心的な考え方をしたために生まれた虚構であり、実はそんなにはっきりと区別できるわけではない、というのが彼の主張だ。

しかしこれはABO型で分類できたり目の色で分類できけど、白黒黄色の分類が19世紀の西洋中心でなのでそういった分類はしてはいけません、という理由にはなっていない。それじゃまったく分類しないのか、なぜ19世紀の西洋中心の分類を今使ったらいけないのかということに対しての答えにはなってない。たとえば、ヒスパニックという概念が根拠なきものだと証明(小坂井程度のものなら)できる。ブラックとヒスパニック、ヒスパニックとホワイトのきっぱり割り切れないということくらいいくらでも述べることができる。だけど科学というものは単純化してモデル化することなしではなにもできないので、人間が「分類」をやめないかいぎり小坂井の人種区分に関する主張は実現化されない。そしてもっとおかしなことに、「あいまいだから」という理由で人種という概念を遠ざけた小坂井は、同じく「あいまいな」民族概念は弁明や理屈っぽいいいかただけど結局、理屈のない言い方で認めている。

繰り返しになるけど、「肌の色や髪の毛の形が欧州人と非欧州人を簡単に別けられる基準だったので肌の色や髪の毛の形を基準に人種を決めることになった」とかいっても、小坂井が自分で認めているようにもともと人種というものが科学というものでコミュニティを作り上げた欧州社会の人々が自分たちと自分たちでないものをわけるために作り上げた概念なのだから自己言及的堂々巡りなのだ。

「私たち」と「彼ら」という概念が先にあって、彼我の漠然な距離感をどうやって表したらいいのかわからなったので科学者たちが悩みました、で、髪とか肌だったら最大公約数を見つけることができるかもってサッカーが言いました。That's Sucking it。

人種なんて科学ではない社会・文化学的な便意のためのでっちあげだ、とかいってもいいけど、それじゃ実は言語の分類なども政治色強すぎるとちゃんと言わなければいけないのに、小坂井はまるで人種(及びに民族)が特異的におかしいとでもいいたげな書き方をする。学部卒でしかない私に言わせてもらえば、文系の概念なんてそういうものだ。

脳科学あたりを引用してもいいけど、分類癖は人間に備わった基礎的な(本能的な)機能なんだからそれに文句言っちゃおしまいよ。だったら各単語を名詞だ動詞だと分類している広辞苑(出だしで引用している)から文句つけないと。

この本の註にも書いてあるんだけど、植物の中には異種繁殖が可能ややつらもいて、じつは種というのも完全な分類ではない。だけど種というカテゴリーの仕方がなんか悪いのかというと別に小坂井はそんなことは言ってない。だったら別に民族が虚構だろうがどうだろうが文句言う必要はないはず。

たとえば、家族の形態はいろいろあり、法律と条約によって記述される概念以外においては標準的な家族というものを一言でいうことはできない。だけどやはり婚姻関係をベースとした家族という概念はある程度共通であり、それと同じように民族の分類の仕方がはっきりしていなく(虚構)ても民族というのはある。(今の各国は民族自立という建前だから逆算的に民族というものは家族より普遍的だよ、という議論すら可能)

それから100年ほどで日本人の構成員は全員変わるから民族は虚構なりってギャグはあまり笑えなかった。だったら人間の細胞が20年ほどで全部入れ替わったら小坂井は小坂井じゃなくなるの?本当にそんな風に思っているのなら(哲学やっている人たちにはそういう人も実際いるからね)、民族の虚構性より「自己」の虚構性について語ったほうが早いしもっと本質的だ。しかしその攻め方だと世界自体が虚構だと証明できるから、あまり簡単に使わないほうがいい。だってそれを極限まで持っていけば、細胞が半分変わってしまったので10年前のシリアルキラーAはもう罪を問えません、という話になっちゃうし。

私は民族なんて便意的なものであって民族の構成員なんて変わり続けているし確固としたものではないという、小坂井の意見に賛成のほうなんだけど、言ってるのが古臭い上に矛盾しているので指摘した。

それとマイノリティを受け入れる開かれた共同体とか言ってるけど、実はこれも小坂井本人の言ってることとは矛盾している。一人の人がいろんなカテゴリーに属するって言うのが民族の虚構を打ち破るために提出した小坂井の論理で、だったら確率的にマイノリティのほとんども別々のなんだかのマジョリティに属しているわけ。だったら結局、自分がマイノリティではないフェーズでがんばればいいので、はい、おしまいじゃん。

でも、実は一人の人間がいろんなカテゴリーに属しているといってもやはりたった一つか二つのカテゴリーが実際の政治問題として重要。だからその少数のカテゴリーにウェイトをおいて民族とか国籍とかを強調する。なにが悪いのかよくわからない。あとで説明するけど、結局小坂井的な哲学は、差別OKという結論に行く。ダレダレ(本書参考)が全体主義に行き着くというのよりも、小坂井が差別主義に行き着くのが早そうだ。

だから別に私は、民族が虚構ではない、といっているわけではない。むしろ、民族なんてものは競争力の高い共同体を作り上げるためにNation-Stateという枠組みが、それこそ絶対王政や重商主義などみたいな形ででてきて、ナポレオンあたりがそれに郷土愛などをうまくあわせて平等な国民兵による総動員体制なんてもんでヨーロッパを席巻してしまったから民族国家論が広まっただけだという考え方をもっている。それから帝国主義が行き詰ったので、対案としての民族自決ってのもある。でも、やはり人間というものは愛するべきものが必要だし、心地いいんだよね、あれって。まだ世界地図とか歴史とかよく知らなくてもよかったときは自分の故郷だけ漠然と愛していればよかった。

だけどもう私たちはドイツワールドカップを目前にしているわけで面白いじゃん、やっぱ。韓国代表と日本代表がサッカーするのオもろいじゃん。ただ私が言いたいのは、近代的なNation-Stateができたとき、完璧な虚構ではなくなにかの同一性を持った人びとをまず束ねて、そこから逆算して民族の歴史を作ったり、民族の特性を作ったり、そこからできた子孫たちを同一民族と思わせているということ。そういう攻め方のほうがずっとファンシーだし説得力もあるよ。無論、小坂井は「内部=外部」、「異邦人」とかのタームを使いたがっているのだからファンシーだからといって私の提案に乗るわけがないのだが…

だから小坂井は攻め方を間違えているわけ。だって民族って虚構です、だから民族差別なんて根拠なしです、だけど人間は虚構無しでは生きれないんです、って正直何が言いたいのかわからない。人間が虚構無しで生きていけないのならその虚構に基づく差別上等なはず。だって人類が虚構なしでは存在できないのなら、人類の生存がなによりも優先されるという前提において差別は許されるわけだよね?

別に虚構上等ならヨーロッパ人が差別的な分類をしたところで結構なのじゃないのか?その虚構とあの虚構の間に溝があるのかないのかはっきりして欲しい。虚構Aが社会一般に受け入れられていて、虚構Bが受け入れられない場合それはなぜなの?ということがまったく説明されていない。

人種や民族なんて虚構であるなんて実はみんな言われなくても知っていることなんだよね。ある程度民族なんて虚構である。だからこそガキのころから我が民族はどうのこうのと教え込むわけ。だから正直、小坂井の論証だけではまったく意味ない。だけど本人はみんなが知らないことを言っているつもりになっている。小坂井のいう程度の虚構なら指摘してもしなくてもどうでもいいや。

言い直すと、結局小坂井は「人種を分別するのは虚構の基準に基づいているから人種は有効な概念ではない」といっているわけ、でも民族においては「人間は虚構無しでは生きていけないから民族という概念が現実的な力を持ち続けても仕方がない、妥協しよう」という。だったら人種の概念をそこまで否定した理由はなに?最初から、「人種というのは虚構に基づいた嘘だけど、まぁ、仕方ないや」で終わっても別に悪くないと思われる。

でも、実は「人種=虚構=ダメ」はこの本のほんの最初のほうでちょっとでてくる話で、実はこれを省いても論理は成り立つ。結局、「見えないコントロール」(ソフトなコントロール)をしろという話に無難にまとめる。その本質的な論理展開はあまり問題のない、甲論乙駁的社会学ワールドの議論としてはそれなりに有効だと思われる。

正直、数年前に読んだ後にすぐ捨ててしまった本をレビューするつもりは無かったのだが、偶然、アマゾンで6人のレビューアが6人とも5つ星をあげているのに驚いて、ちょっと子供っぽい批判口調になってみたまでである。私がレビューアなら星三つ半くらいだろう。


Further Reading:
なし
posted by 白紙状態 at 12:05| ソウル 🌁| Comment(1) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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