2005年12月31日

2005年に読んだ日本語の本のTop 20

1. 「カルロス・ゴーン 経営を語る」 (経営・伝記)
−三つの大陸で育ち、三つの大陸を飛び回りながら世界的な二つの自動車企業のCEOを兼ねる、この時代の最強のビジネスリーダーと呼ばれても遜色はないカルロス・ゴーンの伝記。本人のインタビューを元に編集されているので、彼の原点はどこであり、彼が何を考え、どう日産を立て直したのかを理解することができる。

2.「驚異の百科事典男」 (伝記・オタク)
−確かに驚異である。ブリタニカ百科事典をAからZまで読み倒し、それをネタにして本を書いて、印税ウハウハだなんて常人では思いも付かない奇天烈な思考ではないか。主人公もAJも、その周りの人も結構いい味を出しているので、ただの百科事典感想文ではない。乞う一読。

3.「サバイバルとしての金融」 (経営・経済)
−夏のインターン期間中、最初に出勤した日に、チームの人たちが忙しすぎて私にかまってくれないとき(=仕事がないとき)に、読んだ思い出の(?)本。ハゲタカとか金の亡者とか社会から皮肉混じりな見方をされる金融マン側の正義を読んでる側が恥ずかしくなるほどストレートに書いたわかりやすい本。

4..「信長の戦争」 (歴史)
−三段撃ちや一夜城の神話を崩し、なぜ信長がすごいのかを実証的に書き記す名著。

5.「魔術士オーフェンはぐれ旅」シリーズ (ライトノベル)
−全20巻のシリーズの再々読。いわゆるライトノベルは好きだし、日本語を学んだとき、結構役にたってけど、高く評価したりはしない(だから読書量の半分以上がライトノベル&マンガであるにもかかわらず、ここではあまり紹介しないと思う)。だけどこのシリーズはオーフェンというキャラクター造形に共感しているので、高く評価している。

6.「サマー/タイム/トラベラー」 (SF・ライトノベル)
−SFオタクたちの全能感いっぱいの青臭さと純粋な少女が救いだという青春SFのだめだめなところを引きずって入るけど、地域通貨や各種のガゼットがすごいとしかいいようがないので、高く評価するしかなさそうだ。

7.「経済学者たちの闘い」 (経済・歴史)
−読むべし。マイナーな経済学者たちもちゃんと拾って、経済学という学問がいかにして近代を分析し、築き上げたのかについて丹念に一筋の理論を記しあげた傑作。

8.「カフカのように孤独に」 (評論・伝記)
−読む人を選ぶ一冊。少なくともカフカの数少ない著作をほとんど読んだことがあって、カフカの生い立ちや伝記的事実を踏まえた上で読まないとチンプンカンプンな本。この本はなぜか松本駅の隣にあるビルの本屋で買った。

9.「江戸三00藩 最後の藩主」 (歴史)
−べつにすごいとか共感するとかではないけど、ただ大時代的な変革物語(新撰組とか坂本竜馬とか)の影でマイナー藩主たちがどんな人生をたどったかを読めるいい本。

10.「現代アラブの社会思想」 (世界)
−前回紹介した「フランスの外交力」と同じく、「ただそこにある外国」を偏見なく、丹念に知ろうとする書物。

11.「言語の脳科学」 (科学)
−ちょーすげー本。脳も科学もバックグラウンドにない私にとっては、「すげー」としか言いようの無い一冊。

12.「Diet Shingo」 (ダイエット・タレント本)
−痩せれ!という姉の一喝にもぶれることなく肥大していく今年の私…。

13.「イギリス革命史」 (歴史)
−名誉革命とかをディテール付きで知ることは実生活において何の意味も成さないのかもしれない。しかしながらわれわれが現在享受している民主主義というものの原点は名誉革命にあるのを忘れてはいけない。だから読んでみてください。

14.「博士の奇妙な思春期」 (オタク)
−オタクについての精神分析っぽい本。そういえば昨年、ベネチアビエンナーレに行ったとき、日本館にオタクの部屋をミニチュアにしたものがあった。この本を読みながらそれを思い出した。

15.「右傾化に魅せられた人々」 (世界)
−ヨーロッパの移民排除運動についてのルポ。フランスの暴動のときに再読。実はこのTop20の中で一番読まれなければいけない本だと思う。

16.「メカフィリア 押井守・映像機械論」 (オタク)
−押井守が本人の映画の中に出てくるメカについて喋り捲る本。押井作品は90%ほど抑えておかないとなんのことかわからないかも。

17.「神狩り2 リッパー」 (SF)
−朝日新聞の書評でこれをGreg Eganに比肩すると書いたどっかのSF批評家(英文学の享受でもある)がいるのだが、さすがにEganさまと比べることはできない。でも、読むべし。

18.「中国古代の科学」 (歴史・科学)
−薄いし平易だしこれ一冊読めば中国古代の科学をしることができるし、読んでみるべし。

19.「市場社会の思想」 (経済・歴史)
−経済史入門にはもってこいかも。

20.「フランスの外交力」 (世界)
−フランス外交の全貌を丁寧に、特定の思想につられること無く、ただ書き記した佳作。著者の山田は、日本の在仏公使らしいのだが、こういう冷静で知的な外交官がいるということは日本にとって幸せなことだろう。


評:経済3冊、経営2冊、伝記3冊、オタク3冊、歴史6冊、ライトノベル2冊、SF2冊、評論1冊、世界3冊、ダイエット1冊、タレント本1冊 (一冊に二つのジャンルを当てた場合があるので20冊以上になります)。推理小説が一冊も無い!!!という波乱の一年でした。今年の前半は忙しく、中盤にはインターン関連本を読み、後半にはThe New Annotated Sherlock Holmes読んでたのでミステリーはあまり読まなかったりしてます。村上春樹が無いのも久しぶり(10年ぶり)ですね。
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2005年12月23日

フランスの外交力−自主独立の伝統と戦略:ただフランスであること、それだけのこと

前回は、読んでもいないのに「クーリエ・ジャポン」を評価してみたりしたのだが、今度はちゃんと読んでから書くことになった。だけど内容的には前回とあまり変わっていない。今回は、「フランスの外交力−自主独立の伝統と戦略」である。

前回はフランスのクーリエ・インターナショナルと契約して、世界各国の1000個のメディアからニュースを配信してもらって、それを再編集して、日本語に訳する雑誌の話だった。今回は、「フランスと外国」というキーワードに沿う本を紹介してみたいと思った。それが「フランスの外交力」という本である。決して、一ヶ月もこのカテゴリを更新できないでいたので、手当たり次第に新刊を適当に探してきたわけではない(2005年9月初版)。

21世紀序盤を生きる私たちにとって、「フランスの外交」とくればイラク戦争開戦時にアメリカに猛反対したフランスの姿を思い浮かべることが当たり前である。そしてそれはアメリカを含めた世界のいろんな国において、フランスの評価を盲目的に上げることになった。だけど一昔前に「アメリカ最高」といっていたあのときのやり方と何が違うのかわからない。もっと対話が必要である。肯定でもなく、否定でもなく、直接的なベネフィットだけを求める(Seeking)わけでもなくとも、ただ他人として、ただ隣人として、ただ人間として、もっと向き合うべきであり、彼らの問題を彼らの言語で聞けたらなんて素敵なのだろうか。

だけどそれは非常に疲れることだし、実際、ほとんどの人々にとっては無理だと思う。大体、そういった「アメリカの一国主義」を批判している人々の言説が往々、「アメリカこそが悪の枢軸」といった単細胞的皮肉・攻撃のレベルでしかなく、そこにはアメリカを理解しようとする切実な努力などないということから証明可能な話だ。イスラム教徒がみんなテロリストではない、といった人がキリスト教原理主義がすべての理由であり悪である、と断言しているのが、現在の私たちの世界でおきていることである。このように「相互理解」をレトリック以上レベルで実践している人々の数は案外、少ない。

これはイラク戦においてのアメリカが正しいか間違っているかの問題ではない。それをシンプルな善悪と陰謀論で理解しようとしている人々に「相互理解」というタームが占有されていることが問題なのだ。無論、イラク戦におけるアメリカの態度を批判しようとするとき、アメリカの事情を聞き共感するのが邪魔になるかもしれない、だから聞く耳を持たないのがよいかもしれない。それは否定しない。何かを成すためにあえてトレードオフのことを無視するのもある種の戦略であり、それを否定するつもりは、ない。

だけど「相互理解」というタームがそういう人々にとらわれ、本来の役割をちゃんと果たせないこと、それが問題なのだ。理解が尊いものでないのかもしれない、理解しないというのも善の実行にとって必要なのかもしれない、理解できなくとも生きていけるかもしれない、なのになぜわれわれは他国を理解しようとするのかを考えなければいけない。すべての虚言を排除した後に現れる純粋なエレメントに理由を求めなければいけない。非常に微妙なことを繰り返し念を押していうことになって、思っていたより長くなった。唐突だが、実は、この本は、私が考える「理解」のひとつの方法を象徴するよい例だと思われる。

本書の著者である山田文比古は、日本外務省のフランス専門家のようで、フランス留学経験も豊富であり、現在は駐フランス公使だそうだ。彼の叙述の仕方は、きわめて理知的であり、いろんな事実を並べ立て、それがフランスの外交史のうえでいかなる評価を受けているのかをちゃんと書き記している。それは簡単そうで結構難しく、バイアスをなくすことは至難である。彼はフランスと外国のプレーヤーたちがいかなる思想に基づき、いかなる行動を行ったのかをきちんと描く。たとえばイラク戦争前夜、フランスの行動はどんなものであり、それはどんな思想に基づき、どんな賛否両方の評価を受けたのかをきちんと書けている。

フランスを持ち上げるわけでも、フランスを見下すわけでもなく、ただそこにある理解の対象としてのフランスを見ている。国際政治に興味がある人なら必読の書であると私は思う。どんな理想があり、どんな嘘があり、どんな遂行があり、どんな賛否があるのか、知るべきなのだ。一方主義的な善悪のつけ方を望んでいないのなら。そしてフランスという国を理解するために、この本は読まれるべきだ。

でも、おそらく、この時勢とサブタイトルと出版社のマーケティングによって、本書は冒頭で批判したような「自分では多様なる世界を見ているつもりが、実は親米か否かばっかり考えている人たち」に読まれ、著者の意図が捻じ曲げられていくのだろう。フランスなんて力の無い一方主義であることは著者も遠まわしに言っていることであるし、日本がフランスを見習う必要などないとも明言しているのに、アマゾンの書評にはどうしょうもないやつが一つだけ載っている。


Further Reading

うちの本棚にはフランスの話も外交の話もあまりないので、今回はとくになし。

もしくは、クリスマス・カードをもう一度読み直してください。Merry Christmas。
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2005年12月21日

世界を不幸にしたグローバリズムの正体:それ、なんていうスティグリッツ?

世界を不幸にしたグローバリズムの正体」長らく積読状態だった本。同時代的なイシューに関するノンフィクションのベストセラーとなると、基本的なスジや主張は新聞の書評などで全部知ることできるので、タイミングを逃すとまた別のイシューに関する本が出るので積まれたままになってしまう。大学に入って初めての夏休み、福岡の実家に帰ってたときに買ったまま、数日前まで部屋の隅でホコリを被っていた。すべてはその夏のワールドカップが悪いのであって、金銭のありがたみを知らない私が悪いのではない。他山の石もいいが、他人のセイも悪くない。そしてこの「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」という本も、基本的には他人のセイも悪くない、という支点を以て同時代世界を分析している。本書の著者であるノーベル経済学賞受賞者であるジョセフ・スティグリッツのそういった姿勢をこの文章の模範としてみたい。

本書の原題は、「Globalization and Its Discontents」(グローバリゼーションと不満分子たち)で、日本語の題名の「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」とは若干距離がある。まず序章と最後の章で明記されているように、スティグリッツは基本的にグローバリゼーションに賛成している。彼はそれが数億人を幸せにして、百万人を不幸にしたとも言っている。スティグリッツの主張しているのは、「グローバリゼーションはもう引き返せないほど進行している」ので、ガバナンスの変革すなわち「もっと当事者の協力を得て」、「一律的ではない援助」をし、それを機能させることが必要となる。それと翻訳の人は、「グローバリゼーション」という無機的なプロセスと「グローバリズム」という意図的な思想の形をとり間違えているのだ。両者はほとんど同じ意味だし、厳密な区別などあってないものだが、スティグリッツのように「プロセスとしては止められないし、必要ではある。しかしその思想と運用形態は修正すべし」という論者の考え方を述べるとき、それはやはり区別されたほうがいいのだろう。

この本を読みながら初めて気づいたのが二つあった。この本はいわゆる「ワシントン・コンセンサス」を推し進める二つの機関(世界銀行とIMF)のうち、IMFだけをその批判の対象としていること。そしてこの本はよく内部告発とされているが、スティグリッツは「世界銀行」のほうに勤めていたことである。別にそれが悪いとは言わないし、世界銀行で勤めたことがなくともノーベル賞をもらうほどの経済学者が自分のIMF分析を発表することになんら問題があるとは思わない。しかしながら「ワシントン・コンセンサス」の悪名の高さは、それが正しいか間違っているかにかかわらず、IMFと世界銀行の両方に属するものであり、スティグリッツはそれについてはできるだけ語らないようにしている。たしかに彼がIMFだけが悪く世界銀行は悪くないと判断したのかもしれないし、二つの機関を批判することは論点をあいまいにすることに成ったのかもしれない。だけどやはり彼はその旨をちゃんと記しておくべきだったと私は考えている。それとこれってスティグリッツの「非対称の経済学」に拠るところが結構あるから、自説をうまく売るための本でもあると思われる。

それとスティグリッツは中国の独自性なるものを賛美し、それらが極めて正しいという風に書いているが、出版から4年ほどたった今、中国の純粋に経済的な理由からきたテロは増え続ける一方である。逆にIMF勧告によって透明性と構造改革をある程度なした韓国ではIMF自体の評判は悪いが、その影響である透明性と構造改革は(IMFの影響であることは無視されるが)評判がよく、超法規的な権力を持つ財閥中心の従来の韓国的経営への復帰はごく一部の非経済学的言説を除いて存在しない。韓国では97年から98年にかけての金融危機自体を「IMF」と呼ぶほどIMFと金融危機は離せない関連性を持っている。しかしながらIMF以前の体制は、95年の全・盧の元大統領のクーデタと不正蓄財での逮捕・実刑判決によってもはや持続不可能宣告を受けたのだった。べつにIMF的なことが正しいというつもりもないし、スティグリッツがこんなことを言ったらおかしいと思うけど、一応、4年後の視点からコメントしてみた。


Further Reading
1.「スティグリッツ入門経済学」:グローバリゼーションを批判する前に、なぜ自由貿易が効率を最大化するかを知らなければ、なぜスティグリッツがグローバリゼーションを全否定しないのかを理解できないので、基礎テキストとして文章の簡単なこんな本とかを読んでみてください。
2.「非対称情報の経済学」:でもって、スティグリッツさんが普段どんな考えをしていて、なぜIMF&ワシントン・コンセンサスが槍玉に挙げられたかを考えて見なさい。
3.「グローバリゼーション再考」:でも、グローバリゼーション最高と読まないでください。


追記:こちらの書評によると、スティグリッツの新作Fair Trade for All: How Trade Can Promote Developmentは、WTO批判っぽいらしいです。
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2005年12月17日

メシアの処方箋:彼は人類の成長を信じる。けど、彼自身はあまり成長しなかった

SF作家機本伸司の第二作。ヒマラヤで発見された方舟の中にあった、蓮華模様の木簡。それは五千年前の文明が残した人間とほとんど同じDNAを持つ「救世主」のゲノムだった、というストーリ。だから題名が「メシアの処方箋」である。主人公は、そのゲノム地図を元にした子供を作り上げ、救世主を生み出そうというプロジェクトに巻き込まれることになる。

プロジェクトといっても大規模なやつではなく、ロータスという奇人と北川という倫理観のまったくないバイオエンジニアーと逆にまじめすぎる上杉と代理母くらいしかいない小さなグループで、そういった「なにかに向かって突き進む若者の集団」をめぐる物語になる。最後は前作「神様のパズル」と似たように、その「救世主」をめぐる妄想に実現性のありそうなオチをつけるのだが、正直、あまり面白くなかった。

救世主と救いをめぐる物語のくせに人物の深みがあまりない。そういう場合はキャラを立たせて萌えに逃げるとか、倫理などの面は無視するかにしたらいい。しかし機本はそういう器用なことをしなかった。前作ではちょっとかわいいイラストを表紙に載せて、萌え系のキャラのパターンを踏襲したらそういうことができると思っていたらしいが、今度はそうこともなかった。前半は女の影まったくなし、後半のヒロインは風俗で勤めていた経験ありだった。

正直、機本にはキャラをどうこうできなかったのかもしれない。でも、最低限の成長はあったと思われる。処女作の「神様のパズル」のクライマックスでは、一応最低限の説明はあったものの専門的で非日常的な風景・思考が出てきて、素人としてはリズムが悪くなって読みにくかった。しかし今度はそういうことはあまりなく、ちゃんと普通の読者にもわかるような篭城の攻防戦があった。なんとなくベルナール・ウェルベルの「」を思い出す。

まだ3作目の「僕たちの終末」を読んでないけど、機本は、われわれの現在の世界に近い世界で、一見実現不可能に見える旧来のSF的コンセプト(ガゼットではない)を、なんとか力技で辻褄(ディテール)をあわせながら成り立たせる思考実験をそのまま小説風にしているようだ。無論、「神様のパズル」みたいな理論物理学がテーマならべつにいいのだけれど、今度みたいにちゃんと人間を作りこむ必要がある作品ではむしろ弱点になりえるかもしれない。救いというものは、宇宙の作り方(「神様のパズル」の題材)と違って、もっと感情的で、切実で、文学的(な深みが必要な)題材なのだから。


ひとつだけ気になったことがある。こういう「救ってくれよ」と他人に強くすがる(情けなさMAX!の)登場人物は、エヴァンゲリオンのシンジから始まったのかな?ロータスの演説を読みながらなんとなくシンジのことを思い出した。著者の名前がキモト・シンジだからかもしれないが…。


Further Reading:
1.「神様のパズル」:これは読むべし。キャラクターが安っぽくても読むべし。SF読みなら読むべし。
2.「空の思想史−原始仏教から日本近代へ」:名前のとおり、「空」という思想の来歴を明かす本
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2005年12月14日

なんとなく方向転換

A4(Letter)で2枚ほどを目安に書いていたら、なんとなく更新がめんどくさくなってきました。べつにA4で2枚を目標としていたわけでもなく、A4で2枚ならば特別ななにかを記せるというわけでもありません(所詮、書評なので)。なのでこれからは短めの更新を主にしていきたいと思います。それから「書籍関連情報」のカテゴリをこれからは有効活用していきたいと思っております。
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2005年12月10日

インド植民地官僚:インドとか、植民地とか、官僚とかの話

多くの植民地インド(1858年から1947年まで)を扱った本では、必ずといってもいいほど、英国政府(インド省および植民地官僚組織)のエリート官僚たちによる少数支配についてある程度いうことになる。たとえば、名著「創られた伝統」(Eric Hobsbawm著・編)の第四章、Bernard S. Cohnによって書かれたRepresenting Authority in Victorian India(ヴィクトリア朝インドにおける権威の表象)という文章の出だしもまた、その典型(テンプレート)に沿ったものになる。

「19世紀中盤、インド植民地社会の文化的特徴は、一言で言えば、少数の外来集団(イギリス人)と彼らの効率的な統制下に置かれた2.5億人のインド人の間のくっきりとした乖離である」そしてCohnは、その支配の文化・儀礼的な面の歴史をいろんな文献を参照しながら分析し、いかに多くの伝統が作られて、インド人の無意識レベルで支配を受け入れさせたのか、という問題にたいして、文化(この場合はシステム全般の意味)的次元において特定の理念と仮定を正当化することによって権威を打ち立てていったのか説明する。たとえばデリーで行われた帝国会議では、1200人のヨーロッパ人と8万4千人のインド人が参加した。逆にいうならば1200人のエリートイギリス人を以ってすればインドのリーダーたちとその配下の8万4千人につりあうと思うことができたということだ。ちなみに本書「インド植民地官僚」で扱うインド高級文官なる官僚組織は1000人ほどだったという。

そして本書は、その「少数で特異な一外来集団がいかにして2.5億人を統制したのか」という問題を文化的な側面ではなく、その文化を作った超人(エリートたち)の人間としての姿を統計資料などを用いながら丹念に描く。これは「女王陛下の雇われCxOたち」ともいえる「官僚・エリートたち」がいかなる人間であり、彼らはいかに大植民地を統べる権力を与えられたかという問題に答える。ある意味、成功した組織の分析ではあるが、しかし前回評した、「ホンダ常勝のSED会議」とは違い、具体的な仕事運びや数字的な分析がなされている面において大きく違う。(ちなみに本書の著者の名前は本田毅彦である)

前記の、Cohnの論文に戻ると、「自ずからの戦争能力を放棄するかわりに藩国の国境とその継承権を東インド会社が保障」する契約が交わされた。それは宇宙論的な論理をもつムガル帝国の支配が、極めて実用的なイギリスの思想に置き換わるための文化的な装置である。もちろんイギリス人たちは形式において、結構インド・ムガル的な要素を取り入れたのも事実である。同時に、イギリス人も実用的ではない文化儀礼を作り出したのはたしかだ。たとえば、インド人はヨーロッパ風の服を着ていない場合、イギリス人の部屋では靴をはいてはいけない条例などもあった。だけどやはりムガル・インドと植民地インドの間には大きな差があり、その差を象徴するのが植民地インドの官僚たちである。

インド植民地官僚」はまず、インドと植民地と官僚の関係について述べる。インド統治を本国から操作するインド省は、議会の直轄下におかれインド担当大臣は大蔵大臣、外務大臣などと同程度の扱いをうけたという。インドの現地では、「インド副王兼総督」の下に文武両部門の官僚たちがいて、そのうちの「インド高等文官(Indian Civil Servant)」たちが本書の扱う対象となる。常に1000人前後の少数のエリートたちで構成されたインド高等文官は、その権威と難関の審査・試験を通過したことから少数精鋭のエリート集団として知られることになる。

最近読んだ、19世紀序盤の話であるボライソーシリーズの19巻「最後の勝利者」では、東インド会社出身の若者がかなり荒くれもので海軍にふさわしくないことをやらかす描写があるが、女王の王冠に輝く宝石になった後のインドは息苦しい本国を離れ、自分の力量を最大に発揮できる憧れの場所になった。ちなみにそういった高貴で異国的で自由なインドの様相を描き当代随一の作家にのし上がったのがジャングルブックの原作者キプリングである。そして異国で力量を発揮したかったのは、「教育を受けた中産階級」(Educated Middle Class)という弁護士、聖職者、内科医、教授などの子息だった。高等文官は、その選抜試験を通る必要があった。ある意味、それは身分制度にこだわらない、知的能力に根拠をおく近代的な官僚制度の始まりであるといえる。その理念は、古典的な知識をもつジェネラリストの選抜で、時には、「古典学」の素養をびっしりと仕込まれたオックスブリッジ(Oxford+Cambridge)出身者を優待するために試験制度を変え、インドでは現地出身の弁護士にやられる裁判官などといったケースを量産することになった。ちなみにその高等文官の中にはインド人も含まれている。

著者はインド高等文官採用試験の合格者たちを統計的に分析し、彼らの出身背景や彼らの出身地域について執拗に語る。ちなみに49%の合格者がオックスフォードで、30%がケンブリッジ出身だったそうだ。それから高等文官試験専門の家庭教師−詰め込み屋−なるものの存在も注目されている。採用試験合格者たちはイギリス国内の大学で1〜2年間の研修を受けることが義務とされており、そのなかでもオックスフォードのベイリオル・カレッジが人気だった。ベイリオル「カレッジの学長であった古典学者ベンジャミン・ジョウェットが、オックスフォードでの古典学教育と、帝国の支配を委ねられた典型的なエリート集団であるインド高等文官制度とを結びつけることについて、きわめて熱心であったことが、その誘引だった」とのこと。ベイリオル・カレッジなら若き日のピーター・ウィムジー(推理小説の中の探偵)のすごした場所だった。感慨深いものである。このことからわれわれは高等文官制度が「試験」と「知性」への信仰に基づくものだと知ることができる。そのほかには彼らの恋愛模様や「ジェントルマン資本主義」の話もある。ちなみに恋愛のパートでは、それこそ古典的な一目惚れや幼馴染との結婚もあったりして、そっち系(幼馴染萌え)の人たちからは貴重がられる文献の紹介もある。

ちなみに天下りと昇進スピードについての論考もあり、官僚組織というものはある意味天下りを前提としたものであるということがわかる。高等文官制度においては、あるところまでは年功序列でいくが、それ以降は能力主義らしい。それからインド植民地官僚の下落の時代について語られる。インド自治運動が活発になってくるにつれ、イギリス本国から派遣された官僚の地位は低くなるばかりだった。そこで彼らがどう対処したか、リーダシップについて考える必要のあるかたにはインサイトを与えてくれるいいチャンスになるかもしれない内容だと思う。大西洋航路発見後のベネチアなどがそうであるように、個人がいくらがんばってもしょうがない場合が歴史上にはいくつもあった。そのときはうまく逃げることが大事である。大局観を持たない奮闘はただのリソースの無駄使いだといわれても仕方がないのだから。戦略的に撤退することこそが最善である場合、退却戦をどう繰り広げるかについての論考は少ない。そして本書の二部はそんな退却戦のやりかたを教えてくれる。


Further Reading
1.創られた伝統:効率的な支配のためには伝統すら作り出せるのが人間なのですね。
2.学寮祭の夜:オックスフォードが舞台の名作ミステリー、当時のリベラル風の貴族や教育された中産階級の息遣いをかんじることができます。
3.大英帝国の大事典作り:同じ著者による同じほどの傑作、のはず…11月に出たのでまだ読んでいません。
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2005年12月04日

ホンダ常勝のSED会議:どうしようもないほどジャーナリスティックで

(昔、べつのところ書いたやつを転載します…)


本書「ホンダ常勝のSED会議」の内容は、まず
1.アメホン(北米ホンダ)はえらい!、そして
2.アメホンの役員はエライ!、ホンダもえらい!、やがて
3.ACURA最高!、シビック最高!、ホンダ・インディー・チームエライ!
4.ホンダはこんなアゼンダを掲げているんだ!だからエライ!になる。


略歴によると、著者、大塚秀樹はいわゆるジャーナリストらしい。

本書のキーワードは、まずタイトルにもなっている、SED,すなわちS(販売)E(生産)D(開発)の三部門から集まった実務の人たちが激論を戦わせて新車を作っていくという会議だ。それから日本本社は大株主にすぎない、アメホンはそのコントロール下に入っているわけではなく、ある程度配当を済ませばOKという関係だという、「本社大株主論」、下取り価格維持のために「レンタカー会社にホンダの車は売りません」、トップダウン方式ではない、社論に基づきExecutivesが動く「トップが部下に踊らされる企業文化」、
現場、現物、現実の三つの現を重視する「三現主義」、ある工場の人員が1万人を超えると、ホンダ文化の維持が難しくなる経験則、「社会貢献」、「CSI(顧客満足度)重視」経営
などがある。


日本のほとんどのビジネス書に共通する話だが、本書も、ジャーナリスティックなくだらないセンセーショナルな書き方で、ただ登場人物(無論、実在のリーマン)をほめることに始終する。そしてそのほめる理由はたしかに理にかなっているかのようにみえる。だけど、ホンダという成功した会社で、その成功をもたらした人たちの戦略を建前のお題だけ採ってくれば、それはたしかに理にかなっているかのように見える。しかしそれは結果論に過ぎない。すべては偶然の技だったのかもしれないし、まったく関係のない部分での成果だったかもしれない。だけど本書は、まったくといっていいほどそういった面に目を向けない。

著者は、「ホンダは成功している。ホンダの社員はXXが大事だったという。だからホンダの成功はXXのおかげである」としか言ってないのだ。XXと成功には本当に緊密な関係性があるのか、そしていかにしてXXは成し遂げられたのかについての描写はないといってもいい。SED会議で殴りあったなどというのは、正直どうでもいい。(著者の名誉のために一言付け加えさせてもらうと、べつに殴り合いがメインなのではない)そんなのはドラマ化するとき必要なのに過ぎない。

世の中の企業はみな馬鹿ではないのだから、みんなあれこれ「理にかなった戦略」を導入する。それこそコンサルタントに数億円を払ってBPRだのCSRだのを繰り返す。だけど、各企業の差は縮まらず勝ち組と負け組みがでる。本当に読むに値するビジネス書とは、そこまで踏み込む必要がある。

たとえば「勝ち組ホンダの有能なホープだったイリマジリがセガに移ったが、なぜ彼はセガが負け組みになるのを防げなかったのか」というのがジャーナリスティックではない、もっとリアルな問題だろう。そして試行錯誤も述べたほうがいい。たとえば、自伝「jack」においてジャック・ウェルチ元GE会長は、自分の成功も失敗もそのプロセス面から分析し、なぜ成功したのかをはっきりと述べることができた。そういった自己客観視が日本の企業とビジネス書籍には足らないのではないかと私は最近思うようになった。

そして本書のスタイルは、たぶんわかりやすさを優先させ、そしておそらく先行するビジネス書に倣ったものだと思われるが、各登場人物の心理と会話をまるで「見てきたかのように」述べる。実際は、各人のインタヴューに基づいたと思うし、著者のそういった取材努力が足りないとおもうわけでもない。べつに韓国やアメリカやヨーロッパでマスタピースが量産されているわけでもない(量産されないからマスタピースだ)。

本書を含む日本のたいていのビジネス書籍は、思い込みや流行や決め付けと物語だけが存在し、本当に分析的か客観的か応用可能な書籍は見当たらない。無論、いわゆるフィールドブックだけが正しいといっているわけではない。支離滅裂になってきたが、私が言いたいのは、会話シーンと心境描写で一冊をでっちあげるのではなく、そして勝ち組企業の役員たちを「英雄化・善人化」するのではなく、真摯にビジネスという「生きた馬の目を抜く」フィールドを分析し、生き延びる方法を指南してほしいということだ。

私の最近のお勧めは「日本型「成果主義」の可能性」や、「スティーブ・ジョブズ-偶像復活」などがある。

べつに私はホンダが嫌いなわけではない。むしろ、好きといっていいほどだ。そして最後に付け加えておくと、本書は、ホンダの極端な北米重視は、諸刃の刀である、という指摘(162ページ)など、いちおう提灯持ちではないことを示そうとしている。


Further Reading
1.スティーブ・ジョブズ-偶像復活:虚飾を取り払っても立派な人物は立派であることを実証。
2.ホンダ神話:おそらく最強のホンダ本
3.おもしろいだけじゃだめなんだ。評論家山形浩生の文章、なんとなく私と同じことを言いたかってるっぽいし、短いので読んでみてください。
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2005年12月03日

たんぽぽ娘。:なんとなく私は彼女に恋をした

たんぽぽ娘(原題:The Dandelion Girl)。ロバート・F・ヤング作。リリカルなタイムトラベル系のSFの名を上げる場合(こんなこと人生において一度か二度くらいしかないと思うのだが…)、そのトップ10に入らなければおかしい作品である。逆に、これをトップ10にあげないのはモグリのSFファンである。本稿の題名に「。」をつけた理由をいうのは野暮だと思う。

日本では「海外ロマンチックSF傑作選2」や「アンソロジー 人間の情景 6」などのアンソロジーに収録されているらしい。しかしおそらく両方とも絶版だろう。ちなみにそういった絶版本の復刊交渉に励む復刊ドットコムでは、「海外ロマンチックSF傑作選」の復刊投票をやっている。100人の投票があり、もう出版社に要望のメールを出したらしいので、もうその必要がないかもしれないが、いちおうここでチェックできる。(SFマガジン2000年2月号に再録されている:出版社にバックナンバーがないのだけれど…)

ちなみにネット上には英語のやつもあるし、内容も短くそんなに難しい英語じゃないから、暇なときに読んでみるのもわるくない。

<ここからネタバレあり:でも、ネタを知ってたところでこの短編の真価か変わらないはず>


きわめてベタで甘いSFである。ある日、中年になった男は、例年なら妻と一緒にすごすはずの休みを一人で過ごすことになる妻が陪審員になったからである。そして山の中の、湖のほとりで過す休暇のひと時を楽しんでいたとき、ある少女と出会う。タンポポにもにたブロンドの純粋さを絵に描いたような少女と。彼女は自分が未来から来たといい、男はそれを冗談半分のうそだと思う。

彼女は「Day before yesterday I saw a rabbit, and yesterday a deer, and today, you.」(二日前、ウサギをみたわ。昨日は鹿、そして今日は、あなた)という。これは結構有名なせりふで、かなりあっちこっちで引用されているはずだ。

初秋の日差しが木の葉に反射して、森のあふれんまかりの柔らかな緑色の光で満たされるころ、男は少女と何回か出会いを重ねる。ある日、少女は去り、男は帰ってきた妻を迎える。そしてある日、偶然、その少女が自分の妻の昔(ややこしいな)の姿だと言うことに気づく。

タイムマシーンの故障で最後の一回しかタイムトラベルができなくなった少女は、もっと昔へと向かい、若き日の男と出会い、恋に落ちたのだ。

こんなストレートな話はもう誰も書くことがない。しかしこの短編が書かれたのは1961年のことで、まだSFはその可能性を模索していたころだ。だからストレートに感傷的(センチメンタル)な「たんぽぽ娘」なども(おそらく)前例のあまりない作品として向かいいれられたのだろう。だからこそ読んでもらいたい。この短編は可能性を模索している厨房(なぜかここだけネット用語)にこそ読んでもらいたい。そして萌え苦しんでもらいたい。


今ならこの素材でもっといろいろいじり倒した作品になるのだろう。そう、この物語はいろんな視点からみることができる。たとえば妻の視点。未来の自分が夫に出会うことを知っている彼女は、陪審員に選ばれて出かけるときになんとなく昔のことを思い出し笑みを浮かべる、なんていうのもいい。自分はなぜ「自分が夫と最初に出会ったとき@彼女の主観」に夫と一緒にいなかったのだろう?と悩んだりもしたのだろう。

これが今風の萌え系のライトノベルになるなら、最後まで真相を明かさないことはない。むしろ、最初から結婚を決意した「妻」が登場し、彼女が若き日の主人公に「好きです」状態で突撃するのが正しいのだろう。そして理由は後から説明される。未来の自分にほれた同年代の美少女がタイムトラベルで自分の元に来てラブラブ状態だなんて普通、普通。

「たんぽぽ娘」的設定&センスをいじくりまくって物事をごちゃごちゃにして、私をしてたんぽぽ色の服を着た美嶋玲香に萌え殺しにさせたのが例のアニメ「ラーゼフォン」だったような…。




今回からFurther Reading(関係のありそうな本)を何個かピックアップしていきたいな、と思います。

Further Reading
1.「ある日どこかで」:映画にもなっている「Somewhere in Time」の原作。切ない恋のタイムトラベル
2.「ラーゼフォン蒼穹幻想曲」:アニメ版より面白いゲーム版
3.「時の鳥籠」:「たんぽぽ娘」の設定を現代に置き換えたらこういうことになります。
posted by 白紙状態 at 06:10| Comment(0) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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