2006年01月29日

日本探偵小説全集6 小栗虫太郎集:ここまでセカイにたいする悪意を明確に打ち出した小説はそうあるものじゃない

本書は、日本推理小説の歴史に残る奇作「黒死館殺人事件」や日本人は一人も出てこない密室犯罪モノである「完全犯罪」などの小栗虫太郎の代表作を含む。いろんな人によって何度も何度も語られている作品と作者なので、私などに語れることはほとんど何もない。だけどあえて屋上屋を築く無謀さを発揮するのなら、それはそれでこの偉大なる滑稽なる作品に一つの賛美歌(供物でもいいけど…それは別の機会のために取っておくとして)をささげることくらいはできるだろう。まず、1933年のことである。

1933年の小栗虫太郎のデビューはある意味伝説的な趣を持っている、といっても有名作家なるものは非凡なるデビューをするのが常であり、江戸川乱歩が「悪霊」の連載中に逃げ出し、それを埋めるはずだった横溝正史が結核で倒れたことによって、代役のそのまた代役と選ばれたのが小栗であった。正確に言うと別名義で、以前作品を発表していたりしたらしいのだが、一応のデビューのこのときの「完全犯罪」からとする。

この中国の片田舎で少数民族の共産主義兵団の将校たちが西洋人の館に泊まる最中に行われた密室殺人を扱っている「完全犯罪」なる短編は、今の読者からしてみるとそんなにおかしくもなんともないトリック&設定なのだが、当時としてはものすごいものとして認められたという。

なぜ「完全犯罪」は日本ではなく、外国(中国)にその背景を置いたのだろうか。この問題に直接答えを出すことはできないが、いくつか仮説を用意することならできる。まず遜来の日本家屋においては「密室殺人」なるものが不可能だといわれていたことが一つの理由だと思われる。まるで「日本語でロック(orラップ)は可能なのか」という論争と似ていて、推理小説が輸入された頃には、完全なる密室の中での殺人なるものが日本式家屋では不可能であるという説が有力だった。なぜなら襖と床下と天井裏で部屋がつながっている日本式家屋は西洋の「鍵」の部屋とは違い密室を・りにくかったからである。だからこそ日本家屋での密室殺人を扱った横溝正史の「本陣殺人事件」や高木彬光の「刺青殺人事件」が高く評価されているのである。

それはもし、推理小説なるものが日本で成立していたら問題にならなかったはずであり、あくまでも「学ぶべき先達」が西洋の大作家たちであったことから、彼我の文化的違いがあったことからその学習がうまくいかなかったことの象徴的な問題である。これで乱歩の小説が本格というトリック中心の見方をするとつまらない駄作であるという例の問題を説明することもある程度できると思う…

だからその違和感を和らげるために舞台とそのディテールを西洋・外国的趣向で埋めるという荒業がでる。日本語のラップがおかしいと思う日本人は英語でラップするしかないじゃないか。(ラップなんてしない人が大半なのだろうけど…)小栗のやりかたは方法論的に正しく、実際に小栗はデビューの次の年に同じ路線の「黒死館殺人事件」という最高傑作をものにする。

無論、「完全小説」という小説が実際そういう理由をもって、中国を背景に選んだのかは分からない。しかし小栗の外国趣味、もっと正確に言うと西洋オカルト趣味はこのデビュー作から現われているし、数少ない彼の本格推理作品の中で日本の白系ロシア人を扱った「聖アレキセイ寺院の惨劇」やハムレット劇の上演をネタにした「オフェリヤ殺し」などに引き揃がれていいる。

徹底的に西洋の意匠を用いたこの「推理」&「密室」小説は、読者としては一回も行ったことのない西洋(っぽい雰囲気)のファンタジー的な効果ももたらす。私たちが通常ファンタジーとよぶ異世界の話、すなわち私たちの世界からいろんなものを除して異質感を出す引き算的ファンタジーではなく、いろんなものを足して足して足して幻惑を誘い、既知を惑わし、彼岸へと誘う足し算のファンタジーである。実際の小栗は「黒死館殺人事件」を書いた後にも関東から外へは出たことがないらしい。晩年にはマレーにも行ったらしいけど。

普通、小説に於ける衒学主義は、主題への導きや雰囲気作りに用いられることが多く、推理小説における衒学主義の代名詞であるS.S.ヴァン・ダインの作品でもそれ以上のことはない。しかしながら作品の流れを壊してまでくどいほど続けられる探偵役の薀蓄は、暴力的とまでいえるだろう。乱歩によると「黒死館殺人事件」は「文学以前の素材の羅列」であり、「作者が彼自身の探偵小説のみならず、世界の探偵小説を、この一作によって打切ろうとしたのではないかと思われる」らしい。

普通、小説なるものは上手なものでも下手なものでも、ストーリとテーマで成り立っていて(学術用語のストーリとテーマとは違うけど…)それらのために作者も、素材も、背景も、登場人物も、ほかのいろんなものも奉仕している。だけど、この作品と作品内の「セカイ」はプロットと装飾(衒学主義のディテールのこと)だけで成り立っている反「推理小説」であり、乱歩が一目で見抜いたとおり「作者が彼自身の探偵小説のみならず、世界の探偵小説を、この一作によって打ち切ろうとしたのではないかと思われるほどの悽愴なる気迫」が確実に内在している。これは確実なる悪意であり、「セカイ」を終わらせようとする気迫がある。

だから彼の絶筆が終戦直後の未完成の長編「悪霊」であったことは、小栗のデビューのきっかけとなった乱歩の「悪霊」とのかかわりだけではなく、その「悪意と気迫」がいったいどこへ至る予定だったのか、それがなぞであるからにして残念であり、また幸いである。だってもしそんな「梟の巨なる黄昏」(By笠井潔)みたいな小説読まされても困るし…、それ読んだらもう他の本読めなくなりそうだし…。


Further Reading
1.「黒死館殺人事件について」:黒死館殺人事件の以上なるまでの薀蓄満載ぶりはここを読むだけでいや!というほどわかります。
2.「昂奮を覚える
posted by 白紙状態 at 23:39| ソウル ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月27日

容疑者Xの献身:確かに独創的なトリック、で、それがどうした?

これは本書の序盤でわかることなので伏せておいても意味が無いので、素直に内容をばらすと、本書は好きな女性の犯罪を隠すために自ら泥を被る「純愛」男の話である。今まで人間が描けてないという理由で直木賞をもらえなかった東野圭吾に直木賞をもたらした作品なのだからどんなものなのだろうかと期待して読み出した。たしかにこれは佳作である。このトリックに前例があるかもしれないが、すべての要素が無駄なくトリックをかっこよくキメルために奉仕しているし、探偵が犯人を尊敬しているからこそトリックを見破ることができたというのもまたいい。

だけどこれが世間で言われているような傑作であるかといえば、やはり否というしかないのだろう。小説の中ならどこにでもいそうな、でも実際はあんまりいない、紋切り型の単純な人物ばかり。たしかにそういうやり方はトリックを際立たせる役割があることは確かだし、私とてそれに突っ込むような野暮な性格は持ち合わせていないのだが、これを読んで「純愛です、感動です」というのはいかがだろうか。図式としての「純愛」はたしかにあったし、作者の提示する読み方(なるものがもしあるのなら)はそうだろうけど、私は正直あまり心に感じるものが無かった。

そして二つの意味でまったく救いのないエンドには呆れた。お涙頂戴と犯罪は罰せ無ければいけないという考えがなんの考えもなくただ配置されていること以上の何にもなさそうなエンディング。まったく人間が描かれていないことで有名(?)な綾辻行人の「十角館の殺人」あたりのラストのほうがよっぽどこれまで絶え間なく提示された類型的な「人間」の典型から逃れた(あれはあれで漫画チックなのだが…)

「人間を描けている」要素はたくさんあるけど、これじゃただ数式を並べ立てているのとなにが違うのだろうか、と私は思ってしまう。東野圭吾最高傑作はやはり「悪意」なのだろう。無論、この作品のトリックがダメだと言っているわけではない。全体的な完成度も、エンタテインメントとしての価値も、純愛純度も文句のつけようのないものだろう。散々いったけど「人間」を描けていたのもある意味事実である。だけどそれが「類型」的な、カッコつきの「人間」であると私には感じられる。


それと「同じ人間を二度殺すことはできない」とかいっているけど、警察なめているよね?これって…。


Further Reading
1.「悪意」:私が選ぶ東野圭吾の最高傑作
posted by 白紙状態 at 21:07| ソウル 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月25日

3月6日以降のこのブログ

3月6日に陸軍に入隊することになりました。兵役は二年です。3月6日以降は、軍隊内の任務や環境によってこのブログの更新頻度が変わるはずですが、それらについてはまだなにもわからないのでなにも確実なことはありません。しかしブログを閉じるということは考慮しておりませんので、更新頻度が少なくなってもブックマークは残しておいてください。
posted by 白紙状態 at 09:20| ソウル | Comment(1) | TrackBack(0) | 告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月17日

超殺人事件−推理作家の苦悩:おめでとうございます。

前回、「言壺」に関する文章で、叙述支援ソフトのことを若干書いてみた。それから東野圭吾の「超・殺人事件」という短編集のことを思い出したところ、本日、東野圭吾が直木賞を受賞したというニュースが流れ…なんとなく書くことも無いのに書棚にあった東野作品を取り上げてみる。

この短編集には、いろんな戯画化された推理小説家がわんさか出てくる。ある小説家は税金対策のために、連載中の小説のプロットを捻じ曲げ自分のハワイ旅行やリフォーム費用を経費で落とそうとしたり、理系の薀蓄をこれでもかと言うほど詰め込んだ怪作とか、高齢化社会の影響として読者も作家もみんな呆けてしまった推理小説業界の話とか、読者の代わりに本を読んで、それのあらすじと評価と書評をでっち上げてくれる機械がついには文学賞の傾向と対策を作ってくれる「超読書機械殺人事件」などがある。

東野圭吾は、きわめて器用な作家で、「悪意」みたいなきわめて「心理」的な作品を書くこともできるし、「白夜行」や「秘密」みたいなセンチメンタルな作品、「どちらかが彼女を殺した」のようなきわめて緻密な犯人当てパズラー、「あの頃ぼくらはアホでした」のような爆笑青春エッセー、「名探偵の呪縛」や本書のような推理小説・業界の約束事をパロディにして笑うということができる。間口の広い作家だ。

その中でも本書はきわめて異質で、「名探偵の呪縛」では推理小説のお約束をパロディにしたのだが、今度はそれ以上に推理小説を取り巻く人々をパロディとした。曰く、「日本推理作家協会、除名覚悟!作家、書評家、編集者みんなまとめてメッタ斬り」らしい。直木賞に初めて落選した頃に書かれているので、実はそれが理由だったりするのかもしれない。類似作の竹本健治の「ウロボロス」シリーズは実在の推理作家を登場させて笑いを取る趣向だが、本作はそれでもなく、推理業界のお約束を笑うのだから実にマニアックだろう。

…面白いのだが、書くことがない…。とにかく本日のテーマはたった一つ。東野さんおめでとう。七年目の正直ですね。
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2006年01月16日

言壺:あまり面白くない突っ込みを少々

物語の形式が複雑・複合化し、「ワーカム」という「マルチメディア」風のワープロの進化形みたいなものなしでは物語を紡げない近未来。或る作家が突然、「私を生んだのは姉だった。姉は私をかわいがってくれた。姉にとって私は大切な息子であり、ただ一人の弟だった」という文章を思いつき、「ワーカム」に入力しようとしたところ、「ワーカム」のチェック機能(英文ワープロの文法チェック=F7みたいなもの)に入力を拒まれた。意味が通らないという。「ワーカム」はいろんな代案をだして文章「姉=母」を拒む。そして世界は揺らぎ始める…という表題作が印象的な神林長平の短編集。ちなみに「言壺」は、第16回日本SF大賞受賞作品。

私は神林の愛読者なのだが、二つの面からこの作品が非常に気に入らない。

まず、「ワーカム」という古臭いマルチメディア&インタラクション主義に基づく機械が鬱陶しい。まるでCD-Romが最初に出てきた頃もてはやされたハイパーテクストなり、動画+文章なり、サイベリアなりの「映画+小説」、「音楽の出る小説」のような古臭い意匠は、もういい。ダサすぎる。その進化形であるはずの(いわゆる)ビジュアルノベルの愛好者である私がいうのだから間違いない。

でも「ワーカム」的な叙述支援機能はこれからも利便さを増すだろう。(いまでもブログペットやドクターバロウズなどの原始的叙述支援ソフトがあったりする)

二つ目は、「私を生んだのは姉だった」という文章がなぜ「非論理的」で「言語空間を揺らす」のか私にはわからない。通常の社会では認められていないが、父の再婚相手が姉だということは物理的には可能である。動物の世界ならもっとありえるだろう。

シャチが話者の小説で「私は生まれてこの方ずっと海の中で、海の水を飲みながら暮らしてきた」といえないなんてシャレにもならないじゃないか。これくらいのことで混乱を起こしそうなソフトを売るのは背任行為ではないのか?言葉で表わすことのできるすべては論理的である、という考え方を哲学から引く必要もない。一ビット言語しか表わせないソフトを日本語(2ビット)のワープロとして売り出すようなバカっぷりではないか?

神林は「現実と非現実の揺らぎ」が持ちネタ(繰り返すモチーフ)なのだが、この作品はあまりにも考えなしに自分の持ちネタを繰り返しているだけではないのか?


追記:昨年は一冊も新作を出していないのだが…なんかあったのかな?神林くん。


Further Reading:
1.「戦闘妖精・雪風(改) 」:神林入門にはうってつけの作品。
2.「小指の先の天使」:同じく言葉・現実の問題についての短編集。
3.「ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951」:現実とか非現実とか論理とか言語についてSFチックに考えるとき、この方を避けては通れないでしょう。
posted by 白紙状態 at 17:09| ソウル 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月15日

民族という虚構:結局、虚構Aが善く、虚構Bが悪いという理由はなんなの?

民族と言う虚構」は、数年前に読んで、内容自体はそれなりに面白いのだが、言っていることのバックアップがまったくと言っていいほどダメだったので、そのまま駅のゴミ箱に捨ててしまった。この文章は、そのときのメモに手を加えただけなので、口調が砕けていたり、同じことが繰り返されていたりする。

パリ第八大学心理学部助教授で波乱に満ちた人生を歩んだ(らしい)小坂井敏晶の本。本屋で見かけたこれの韓国語版は真っ黒の表紙に細めの赤い文字で決まっているなかなかすごいセンスだったことを覚えている。

本書の内容と言えば、ここ数十年、みんなが「民族」というタームについて繰り返し言っていること、すなわち「民族の同一性」というものは虚構である。しかしこれは民族が現実的な力を行使しないということではない。人間社会は虚構でできているし…という話。当たり前で、理解しやすく、現代社会に求められているシャベリをしている。

だけど、この線をもう少しだけ延長しちゃうと「人間の集りとは虚構である」ということで、この言い回しは家族や国家やその他の諸々も虚構だと証明することができる。たとえば「家族=虚構」説。当たり前すぎて全然ショッキングじゃない。「空気には酸素が含まれている」くらいのインパクトしかない。無論、小坂井もそれくらいは知っている。だけどちゃんとした論考できているならべつにかまわないが、後に書くけど、この本は致命的なミスがある(と私は思う)。

この本はまず「人種」という概念を潰すことから始める。まず、大学の人類学の一番最初に学ぶのが人種なんてあまり科学的意味のない便意のための暫定的な分類でしかないと学ぶ。小坂井の議論はそれの延長線上にある。白・黒・黄の人種区分は、19世紀の西洋の人たちが西洋=白人中心的な考え方をしたために生まれた虚構であり、実はそんなにはっきりと区別できるわけではない、というのが彼の主張だ。

しかしこれはABO型で分類できたり目の色で分類できけど、白黒黄色の分類が19世紀の西洋中心でなのでそういった分類はしてはいけません、という理由にはなっていない。それじゃまったく分類しないのか、なぜ19世紀の西洋中心の分類を今使ったらいけないのかということに対しての答えにはなってない。たとえば、ヒスパニックという概念が根拠なきものだと証明(小坂井程度のものなら)できる。ブラックとヒスパニック、ヒスパニックとホワイトのきっぱり割り切れないということくらいいくらでも述べることができる。だけど科学というものは単純化してモデル化することなしではなにもできないので、人間が「分類」をやめないかいぎり小坂井の人種区分に関する主張は実現化されない。そしてもっとおかしなことに、「あいまいだから」という理由で人種という概念を遠ざけた小坂井は、同じく「あいまいな」民族概念は弁明や理屈っぽいいいかただけど結局、理屈のない言い方で認めている。

繰り返しになるけど、「肌の色や髪の毛の形が欧州人と非欧州人を簡単に別けられる基準だったので肌の色や髪の毛の形を基準に人種を決めることになった」とかいっても、小坂井が自分で認めているようにもともと人種というものが科学というものでコミュニティを作り上げた欧州社会の人々が自分たちと自分たちでないものをわけるために作り上げた概念なのだから自己言及的堂々巡りなのだ。

「私たち」と「彼ら」という概念が先にあって、彼我の漠然な距離感をどうやって表したらいいのかわからなったので科学者たちが悩みました、で、髪とか肌だったら最大公約数を見つけることができるかもってサッカーが言いました。That's Sucking it。

人種なんて科学ではない社会・文化学的な便意のためのでっちあげだ、とかいってもいいけど、それじゃ実は言語の分類なども政治色強すぎるとちゃんと言わなければいけないのに、小坂井はまるで人種(及びに民族)が特異的におかしいとでもいいたげな書き方をする。学部卒でしかない私に言わせてもらえば、文系の概念なんてそういうものだ。

脳科学あたりを引用してもいいけど、分類癖は人間に備わった基礎的な(本能的な)機能なんだからそれに文句言っちゃおしまいよ。だったら各単語を名詞だ動詞だと分類している広辞苑(出だしで引用している)から文句つけないと。

この本の註にも書いてあるんだけど、植物の中には異種繁殖が可能ややつらもいて、じつは種というのも完全な分類ではない。だけど種というカテゴリーの仕方がなんか悪いのかというと別に小坂井はそんなことは言ってない。だったら別に民族が虚構だろうがどうだろうが文句言う必要はないはず。

たとえば、家族の形態はいろいろあり、法律と条約によって記述される概念以外においては標準的な家族というものを一言でいうことはできない。だけどやはり婚姻関係をベースとした家族という概念はある程度共通であり、それと同じように民族の分類の仕方がはっきりしていなく(虚構)ても民族というのはある。(今の各国は民族自立という建前だから逆算的に民族というものは家族より普遍的だよ、という議論すら可能)

それから100年ほどで日本人の構成員は全員変わるから民族は虚構なりってギャグはあまり笑えなかった。だったら人間の細胞が20年ほどで全部入れ替わったら小坂井は小坂井じゃなくなるの?本当にそんな風に思っているのなら(哲学やっている人たちにはそういう人も実際いるからね)、民族の虚構性より「自己」の虚構性について語ったほうが早いしもっと本質的だ。しかしその攻め方だと世界自体が虚構だと証明できるから、あまり簡単に使わないほうがいい。だってそれを極限まで持っていけば、細胞が半分変わってしまったので10年前のシリアルキラーAはもう罪を問えません、という話になっちゃうし。

私は民族なんて便意的なものであって民族の構成員なんて変わり続けているし確固としたものではないという、小坂井の意見に賛成のほうなんだけど、言ってるのが古臭い上に矛盾しているので指摘した。

それとマイノリティを受け入れる開かれた共同体とか言ってるけど、実はこれも小坂井本人の言ってることとは矛盾している。一人の人がいろんなカテゴリーに属するって言うのが民族の虚構を打ち破るために提出した小坂井の論理で、だったら確率的にマイノリティのほとんども別々のなんだかのマジョリティに属しているわけ。だったら結局、自分がマイノリティではないフェーズでがんばればいいので、はい、おしまいじゃん。

でも、実は一人の人間がいろんなカテゴリーに属しているといってもやはりたった一つか二つのカテゴリーが実際の政治問題として重要。だからその少数のカテゴリーにウェイトをおいて民族とか国籍とかを強調する。なにが悪いのかよくわからない。あとで説明するけど、結局小坂井的な哲学は、差別OKという結論に行く。ダレダレ(本書参考)が全体主義に行き着くというのよりも、小坂井が差別主義に行き着くのが早そうだ。

だから別に私は、民族が虚構ではない、といっているわけではない。むしろ、民族なんてものは競争力の高い共同体を作り上げるためにNation-Stateという枠組みが、それこそ絶対王政や重商主義などみたいな形ででてきて、ナポレオンあたりがそれに郷土愛などをうまくあわせて平等な国民兵による総動員体制なんてもんでヨーロッパを席巻してしまったから民族国家論が広まっただけだという考え方をもっている。それから帝国主義が行き詰ったので、対案としての民族自決ってのもある。でも、やはり人間というものは愛するべきものが必要だし、心地いいんだよね、あれって。まだ世界地図とか歴史とかよく知らなくてもよかったときは自分の故郷だけ漠然と愛していればよかった。

だけどもう私たちはドイツワールドカップを目前にしているわけで面白いじゃん、やっぱ。韓国代表と日本代表がサッカーするのオもろいじゃん。ただ私が言いたいのは、近代的なNation-Stateができたとき、完璧な虚構ではなくなにかの同一性を持った人びとをまず束ねて、そこから逆算して民族の歴史を作ったり、民族の特性を作ったり、そこからできた子孫たちを同一民族と思わせているということ。そういう攻め方のほうがずっとファンシーだし説得力もあるよ。無論、小坂井は「内部=外部」、「異邦人」とかのタームを使いたがっているのだからファンシーだからといって私の提案に乗るわけがないのだが…

だから小坂井は攻め方を間違えているわけ。だって民族って虚構です、だから民族差別なんて根拠なしです、だけど人間は虚構無しでは生きれないんです、って正直何が言いたいのかわからない。人間が虚構無しで生きていけないのならその虚構に基づく差別上等なはず。だって人類が虚構なしでは存在できないのなら、人類の生存がなによりも優先されるという前提において差別は許されるわけだよね?

別に虚構上等ならヨーロッパ人が差別的な分類をしたところで結構なのじゃないのか?その虚構とあの虚構の間に溝があるのかないのかはっきりして欲しい。虚構Aが社会一般に受け入れられていて、虚構Bが受け入れられない場合それはなぜなの?ということがまったく説明されていない。

人種や民族なんて虚構であるなんて実はみんな言われなくても知っていることなんだよね。ある程度民族なんて虚構である。だからこそガキのころから我が民族はどうのこうのと教え込むわけ。だから正直、小坂井の論証だけではまったく意味ない。だけど本人はみんなが知らないことを言っているつもりになっている。小坂井のいう程度の虚構なら指摘してもしなくてもどうでもいいや。

言い直すと、結局小坂井は「人種を分別するのは虚構の基準に基づいているから人種は有効な概念ではない」といっているわけ、でも民族においては「人間は虚構無しでは生きていけないから民族という概念が現実的な力を持ち続けても仕方がない、妥協しよう」という。だったら人種の概念をそこまで否定した理由はなに?最初から、「人種というのは虚構に基づいた嘘だけど、まぁ、仕方ないや」で終わっても別に悪くないと思われる。

でも、実は「人種=虚構=ダメ」はこの本のほんの最初のほうでちょっとでてくる話で、実はこれを省いても論理は成り立つ。結局、「見えないコントロール」(ソフトなコントロール)をしろという話に無難にまとめる。その本質的な論理展開はあまり問題のない、甲論乙駁的社会学ワールドの議論としてはそれなりに有効だと思われる。

正直、数年前に読んだ後にすぐ捨ててしまった本をレビューするつもりは無かったのだが、偶然、アマゾンで6人のレビューアが6人とも5つ星をあげているのに驚いて、ちょっと子供っぽい批判口調になってみたまでである。私がレビューアなら星三つ半くらいだろう。


Further Reading:
なし
posted by 白紙状態 at 12:05| ソウル 🌁| Comment(1) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月13日

前田建設ファンタジー営業部:ブルーオーシャン的CSRと見るべきか、あるいは日本ゼネコンの凋落と見るべきか

前田建設ファンタジー営業部」というのがこの本の題名である。著者でも出版元でもない、タイトルが「前田建設ファンタジー営業部」なのだ。そしてその奇抜な題名に負けないほど、この本は奇抜な内容を持っている。実在の大手ゼネコンでベイブリッジや福岡ドーム、アクアラインなどを手がけた前田建設は、2003年2月にファンタジー営業部なるものを社内に新設する。その目的は、談合や賄賂、バブル後の多額の負債とばら撒き型の公共事業に依存しているなどといった悪印象を和らげるためらしい。そのためには、他のゼネコンが進出しておらず、「奇跡手つかずのパイ」である分野に進出することと、それによって人びとに前田建設は他のゼネコンとは一味違うというイメージを植えることが必要となり、フィクションの世界の物件を「技術力」と想像力でできる限り現実に近い見積もりをするという一大プロジェクトが始まった。

初めてのプロジェクトは「マジンガーZの格納庫」の見積もり。物語はプロジェクトX的とマンガ・アニメ的世界観を意識した「個性的」二頭身キャラクターのノリで進むので読むのには困らない。要所要所に登場する専門用語には注釈があるし、ちゃんと普通の人にも読めるようになっている。

彼らはまずビデオで「格納庫」の全体像を知り、アニメの設定資料などと辻褄を合わせて、格納庫のある光子力研究所の所在地と地質を調べたり、材料や工期なども、各分野の専門家に問い合わせたり、専門的な知識をたくさん盛り込んだ、まるで本物のプロジェクトの見積もりを出すかのような真摯さを垣間見せる。最終的にはちゃんと受注して、見積もり通りの施工のできる結果を出せたと野次馬である私には思える(土木の話などちんぷんかんぷんなので確信はできない)。結局、アニメの設定資料などを見る限り、マジンガーZの基地はマジンガーZの本体とバリアーを除いて現代の技術で作れそうだという。

フィクション的なプロジェクトを立ち上げて、社会との関係を模索するという思考において、HONDAのASIMOやSONYのAIBOより遅れをとったけれど、前田建設は土木と言う得意分野を誰も想像したことも無い、フィクション内物件の見積もりとつなげたブルオーシャン的発想を成し遂げたのである。これは、社会との関係を模索すると言う意味ではきわめて良好なCSRというべきであり、企業の事業を説明すると言う面において優れたIRレポートであり、また宣伝と言う面では驚くべき新感覚といえる。正直、MBAのケーススタディに入れるべきだと思われる。

ただ、バブル期には月面ホテルの見積もりを出していた日本のゼネコンが、今では形無きアニメにその夢を託すしかないという事実に少しわびしいキモチになってくるのは私がペシミストだからなのだろうか?


参考文献
1.「第六大陸」:この本を読まずにして月開発を夢見るな!と言い切らせていただきます。第六の大陸である月面を開発する本格土木SF。
2.「前田建設ファンタジー営業部」のホームページ:「マジンガーZ」編およびに続編である「銀河鉄道999」、「グランツリースモ4」の話も読めます。
3.「空想科学読本」:アニメ・マンガの世界のキャラクターたちがいかに物理的に不可能なアクションをしているかについての話をくだくだと並べ立てる本。「前田建設ファンタジー営業部」はこのシリーズのアンチテーゼのようなものだろう。
4.「MMRマガジンミステリー調査班」:会社のプロジェクトとしてわけのわからん話に首を突っ込むチームの話(フィクション)なので、ノリとしてはファンタジー営業部と結構似ている。
posted by 白紙状態 at 16:54| ソウル 🌁| Comment(4) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月09日

ハリウッド・サーティフィケイト:スピンオフしてしまだだ。

島田荘司の忠実な読者でも、レオナ・マツザキというキャラが好きという人は少ないと思われる。最初は松崎レオナとして登場し、後に世界的なハリウッド女優になる彼女は、本書において大きな変化を迎える。それまではあくまでもシリーズの名探偵である御手洗潔に助けを求め、御手洗潔の天才性を際立たせる道具に過ぎなかった彼女は、本書において、自分の才覚を最大限に発揮し、ハードボイルド探偵として生まれ変わったのだ。だけど、やはり私はレオナ・マツザキという人物が好きではない。その性格が好きではない、その役割が好きではない、その外見はどうでもいい。彼女の性格が、役割が、スペックが、すべてが安っぽいし、本書及び最近の御手洗潔のシリーズは安っぽすぎるのだ。

2001年の作家デビュー20周年を迎えた島田は、「ロシア幽霊軍艦事件」と「ハリウッド・サーティフィケイト」の二冊を上梓する。その前年の「魔神の遊戯 」とその次の年の「ネジ式ザゼツキー」あたりはいずれも御手洗シリーズ(とその外伝)で、似たようなネタを使いまわしている。四つとも「脳」と「認識」の関係をめぐった錯誤のものがたりだし、御手洗の登場は少なく、作者の脳医学のお勉強の成果と作劇の一定のパターン(島田荘司の本格ミステリー論)を繰り返している。これが可能で、これが許されるということは作家として上がりの段階であるということかもしれない。

島田荘司作品の探偵役は四人ほどいる。一人目は御手洗潔、二人目は吉敷、三人目は隈XXX(なんだっけ?)、で、四人目がこのレオナ・マツザキ。「「ハリウッド・サーティフィケイト」と来るべき続編において彼女はクールで、セクシーで、時々バイオレントなハードボイルドビューティなディテクティブを演じることになる。だけどその変化が安っぽい。いくら御手洗の動かし方がわからなくて悩んでたとしてもレオナ・マツザキをこんな風に「変態」で、「過激」で、「暴力的」なやつにしたてあげて、続編のにおいをプンプンさせて、御手洗・吉敷以外の探偵役を作り上げたいのかといいたい。「ケルト」、「ES細胞」、「子宮」、「ハリウッド」、「ポルノ」、「快楽殺人者」などといたトレンディでセンセーショナルなタームをオーヴァードーズしているような作品なんて要らない。といってはみるものの、単発のピースとしては面白いので買うことになる。これは面白い。極めて面白い。御手洗潔が説明役としてしかでないのに面白い。嫌いだけど一定の面白さは認める。だけどどこにもいけない堂々巡りの作品群のおもしろさなんて島田荘司は、「占星術殺人事件」や「斜め屋敷の犯罪」などで見せて奇抜さをなくしてしまった。「ネジ式ザゼツキー」なんかもほかの作家が書いたのなら傑作的な出来だとは思うけど、いつもの島田印の脳作品という面がどうもこびりついて離れない。

で、こんな「できのいい凡作」しか作れない島田のことを「これはいま最新の話題で盛り上げているだけで、20年後に評価されるのか?」などという人もいるけど、残念ながら島田はもう名を残して「あがり」の作家なので、こんな「できのいい凡作」を続けてポジショニングを続けていくのだろう。残念ながら。

私的には90年代の迷走よりも開き直った今の島田がいいと思っている。でも、6歳の御手洗とか20歳の御手洗@コロンビアの助教授とかを見たくて島田の本を読んでいるんじゃないって気が付いてほしい。(つーか、実生活で悪魔みたいに頭がいい人たちがどんだけふつうに暮らしているかしっている私としては、島田作品みたいに「天才であることがなにか特別であるかのような」いいかたってあまり興味ないんだよね。べつに御手洗が占星術師でもこまらないわけで…ただ脳科学ネタがやりたいために、実は御手洗って科学も音楽もできるチョー天才でーす、とかいわれてもしらけるだけだし。


参考文献:この文章に登場する島田荘司作品全部
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バトル・ロワイヤル:実は私…

文芸の豊穣なる歴史には無数の「処女作が最高傑作」だった作家がいるし、その中には「処女作だけ出版して、沈黙した作家なので処女作が最高傑作になるしかない作家」というのもある。無論、そういう「処女作に続く作品を出さなかった作家」のうちの多くは質の低さが理由で続編出版を拒否されたり、処女作の出版後に死去したりする不可抗力型が多いのだが、「バトル・ロワイヤル」の高見広春は処女作のヒットの後、沈黙した形になった一発屋である。一応、続編である「バトル・ロワイアル II 鎮魂歌」にもかかわってはいるが、おおよそ高見の作品ではないとの評判である(形式を則って、精神を無視する態になっている)

私が「バトル・ロワイヤル」を手に取ったのは、映画のクランクインの前後だったと思う。少なくとも公開前後の例の国会議員を巻き添えにした大騒動の結構前だったことは確かで、例の騒動をネットで見ながら「バトル・ロワイヤル」をつまみ読みしていたのを覚えている。小説のほうはあまり好きではなかったりする。さて、「バトル・ロワイヤル」の話をしよう。

全体主義独裁政権下の日本。小説では、毎年2000人の犠牲者が出る殺し合いのフェスティバル。唯一の徴兵制。映画では増加する少年犯罪におびえて大人たちが作った戒めの狂騒。これ、リアリティはまったくなし。全体主義的社会において、刑罰を重くしたら非行青少年が学校で犯罪犯せるはずないのに、なぜかそういう当たり前のことが完璧に無視されている。全体主義社会において、反秩序的分子はその存在自体が秩序を重んじる全体主義に反するのでアンダーグラウンドにもぐるしかない。逆にこういう反秩序・反制度的分子が大量に発生し体制側がそれをコントロールできない場合、政権はいつ滅んでもおかしくはない。

全体主義社会においての治安維持問題は、ロックを許す、許さないの問題ではないのだ。「プログラム」を続けられるような全体主義的政権下で非行青少年が学校の先生を攻撃する事件が表面化するはずがない。小説版にもまったく全体主義政権下とは思えない思考(制度が思考を規定するという仮説に基づいている)が存在するが、こういうリアリティなし(それが悪いというわけではない)の作品は往々にして、なにか中心的な主題・題材にそのリアリティの無さの理由がある。繰り返すなら、主題・題材を描くためにリアリティを削るしかなかった場合が結構ある、ということだ。

本書冒頭の、「3年B組金八先生」、スプリングスティーン(ボス)、佐野元春、ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」からの引用は、これが極めて青春原理主義の作品であることを教えてくれる(わからなかったら金八先生を見なさい)。青春なる時間における自意識と抗いの煌々さをいびつなほど極大化して肯定して賛美して描き倒す方法論として、戯画化された全体主義日本社会という設定は極めて正しい。結局、ありふれたたとえ方をするならば圧力があってこそダイアモンドが出来上がるので、主人公たちの「青春の抗い」を見出すためには極めて強い圧力を入れる必要がある。(ここら辺がセカイ系のマンガ・ライトノベルが往々にして「ぼくたち」と「セカイの危機」をダイレクトにつなぐ理由だと思われる)逆に言うと、「青春の自意識と抗い」なる概念は今日、こういった戯画化されることでしか賛美できないことになるのかもしれない。

作者のインタビューなどを読んだことは無いけどおそらく、「青春モノが書きたい」=>「人が死ぬのが劇的で簡単に物語を作れる」=>「それならチュウボウを大量虐殺する!」=>「それじゃチュウボウの殺し合いの物語を作ろう」=>「それが可能な社会はやはり全体主義的社会だろう」=>「それじゃ某北の国のパロディをしてみよう」のような考えがあったと思われる。無論、「金八先生のブラックパロディ」から始まった可能性も否定できない。

だから単に同じキャラクターを使って、同じ世界をもっと掘り下げるという面において、IIは正しいのかもしれないけど、やはりクオリティの低さと題材・主題の欠如を補えるものではなかった。

本書はとにかく「学園モノの定番キャラクター」を示すことに終始している。たとえば運動のうまいさわやか少年。美人で冷たい敵役。オタク。謎の転校生。典型的なヒロイン役。などなど。こういった変人・奇人・おどおどするやさしい女子すらも、個性となる。

「バトル・ロワイヤル」から影響を受けてはいないだろうけど、この系譜に舞城王太郎(戯画化された世界の中で過激に家族愛と青春賛歌)や「魔法先生ネギま!」(クラスの全員に個性(?)をあたえバトル・ロワイヤル状態)があったりする。

で、なんで映画のほうは好きなのかというと映画のヒロインの前田ちゃんがかわいいから…という理由に過ぎない。あのころは私も若かった。ドラゴン・アッシュのこの映画のエンディングの曲が好きで、時々、コピーしたりもした。だから最後の気恥ずかしいまでの逃避行が気に入ってしまった。作者は、「バトル・ロワイヤル」のコミックスも終わったことだし、今度は開き直ってファンタジーとかミステリーを書いてみたらどうだろうか?とおもってみる。

それとこの本、なぜかうちの大学の図書館でも人気で、時々、予約図書の棚に並んでいたりした。(無論、日本語版原書である)
posted by 白紙状態 at 14:57| ソウル | Comment(0) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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