2006年01月15日

民族という虚構:結局、虚構Aが善く、虚構Bが悪いという理由はなんなの?

民族と言う虚構」は、数年前に読んで、内容自体はそれなりに面白いのだが、言っていることのバックアップがまったくと言っていいほどダメだったので、そのまま駅のゴミ箱に捨ててしまった。この文章は、そのときのメモに手を加えただけなので、口調が砕けていたり、同じことが繰り返されていたりする。

パリ第八大学心理学部助教授で波乱に満ちた人生を歩んだ(らしい)小坂井敏晶の本。本屋で見かけたこれの韓国語版は真っ黒の表紙に細めの赤い文字で決まっているなかなかすごいセンスだったことを覚えている。

本書の内容と言えば、ここ数十年、みんなが「民族」というタームについて繰り返し言っていること、すなわち「民族の同一性」というものは虚構である。しかしこれは民族が現実的な力を行使しないということではない。人間社会は虚構でできているし…という話。当たり前で、理解しやすく、現代社会に求められているシャベリをしている。

だけど、この線をもう少しだけ延長しちゃうと「人間の集りとは虚構である」ということで、この言い回しは家族や国家やその他の諸々も虚構だと証明することができる。たとえば「家族=虚構」説。当たり前すぎて全然ショッキングじゃない。「空気には酸素が含まれている」くらいのインパクトしかない。無論、小坂井もそれくらいは知っている。だけどちゃんとした論考できているならべつにかまわないが、後に書くけど、この本は致命的なミスがある(と私は思う)。

この本はまず「人種」という概念を潰すことから始める。まず、大学の人類学の一番最初に学ぶのが人種なんてあまり科学的意味のない便意のための暫定的な分類でしかないと学ぶ。小坂井の議論はそれの延長線上にある。白・黒・黄の人種区分は、19世紀の西洋の人たちが西洋=白人中心的な考え方をしたために生まれた虚構であり、実はそんなにはっきりと区別できるわけではない、というのが彼の主張だ。

しかしこれはABO型で分類できたり目の色で分類できけど、白黒黄色の分類が19世紀の西洋中心でなのでそういった分類はしてはいけません、という理由にはなっていない。それじゃまったく分類しないのか、なぜ19世紀の西洋中心の分類を今使ったらいけないのかということに対しての答えにはなってない。たとえば、ヒスパニックという概念が根拠なきものだと証明(小坂井程度のものなら)できる。ブラックとヒスパニック、ヒスパニックとホワイトのきっぱり割り切れないということくらいいくらでも述べることができる。だけど科学というものは単純化してモデル化することなしではなにもできないので、人間が「分類」をやめないかいぎり小坂井の人種区分に関する主張は実現化されない。そしてもっとおかしなことに、「あいまいだから」という理由で人種という概念を遠ざけた小坂井は、同じく「あいまいな」民族概念は弁明や理屈っぽいいいかただけど結局、理屈のない言い方で認めている。

繰り返しになるけど、「肌の色や髪の毛の形が欧州人と非欧州人を簡単に別けられる基準だったので肌の色や髪の毛の形を基準に人種を決めることになった」とかいっても、小坂井が自分で認めているようにもともと人種というものが科学というものでコミュニティを作り上げた欧州社会の人々が自分たちと自分たちでないものをわけるために作り上げた概念なのだから自己言及的堂々巡りなのだ。

「私たち」と「彼ら」という概念が先にあって、彼我の漠然な距離感をどうやって表したらいいのかわからなったので科学者たちが悩みました、で、髪とか肌だったら最大公約数を見つけることができるかもってサッカーが言いました。That's Sucking it。

人種なんて科学ではない社会・文化学的な便意のためのでっちあげだ、とかいってもいいけど、それじゃ実は言語の分類なども政治色強すぎるとちゃんと言わなければいけないのに、小坂井はまるで人種(及びに民族)が特異的におかしいとでもいいたげな書き方をする。学部卒でしかない私に言わせてもらえば、文系の概念なんてそういうものだ。

脳科学あたりを引用してもいいけど、分類癖は人間に備わった基礎的な(本能的な)機能なんだからそれに文句言っちゃおしまいよ。だったら各単語を名詞だ動詞だと分類している広辞苑(出だしで引用している)から文句つけないと。

この本の註にも書いてあるんだけど、植物の中には異種繁殖が可能ややつらもいて、じつは種というのも完全な分類ではない。だけど種というカテゴリーの仕方がなんか悪いのかというと別に小坂井はそんなことは言ってない。だったら別に民族が虚構だろうがどうだろうが文句言う必要はないはず。

たとえば、家族の形態はいろいろあり、法律と条約によって記述される概念以外においては標準的な家族というものを一言でいうことはできない。だけどやはり婚姻関係をベースとした家族という概念はある程度共通であり、それと同じように民族の分類の仕方がはっきりしていなく(虚構)ても民族というのはある。(今の各国は民族自立という建前だから逆算的に民族というものは家族より普遍的だよ、という議論すら可能)

それから100年ほどで日本人の構成員は全員変わるから民族は虚構なりってギャグはあまり笑えなかった。だったら人間の細胞が20年ほどで全部入れ替わったら小坂井は小坂井じゃなくなるの?本当にそんな風に思っているのなら(哲学やっている人たちにはそういう人も実際いるからね)、民族の虚構性より「自己」の虚構性について語ったほうが早いしもっと本質的だ。しかしその攻め方だと世界自体が虚構だと証明できるから、あまり簡単に使わないほうがいい。だってそれを極限まで持っていけば、細胞が半分変わってしまったので10年前のシリアルキラーAはもう罪を問えません、という話になっちゃうし。

私は民族なんて便意的なものであって民族の構成員なんて変わり続けているし確固としたものではないという、小坂井の意見に賛成のほうなんだけど、言ってるのが古臭い上に矛盾しているので指摘した。

それとマイノリティを受け入れる開かれた共同体とか言ってるけど、実はこれも小坂井本人の言ってることとは矛盾している。一人の人がいろんなカテゴリーに属するって言うのが民族の虚構を打ち破るために提出した小坂井の論理で、だったら確率的にマイノリティのほとんども別々のなんだかのマジョリティに属しているわけ。だったら結局、自分がマイノリティではないフェーズでがんばればいいので、はい、おしまいじゃん。

でも、実は一人の人間がいろんなカテゴリーに属しているといってもやはりたった一つか二つのカテゴリーが実際の政治問題として重要。だからその少数のカテゴリーにウェイトをおいて民族とか国籍とかを強調する。なにが悪いのかよくわからない。あとで説明するけど、結局小坂井的な哲学は、差別OKという結論に行く。ダレダレ(本書参考)が全体主義に行き着くというのよりも、小坂井が差別主義に行き着くのが早そうだ。

だから別に私は、民族が虚構ではない、といっているわけではない。むしろ、民族なんてものは競争力の高い共同体を作り上げるためにNation-Stateという枠組みが、それこそ絶対王政や重商主義などみたいな形ででてきて、ナポレオンあたりがそれに郷土愛などをうまくあわせて平等な国民兵による総動員体制なんてもんでヨーロッパを席巻してしまったから民族国家論が広まっただけだという考え方をもっている。それから帝国主義が行き詰ったので、対案としての民族自決ってのもある。でも、やはり人間というものは愛するべきものが必要だし、心地いいんだよね、あれって。まだ世界地図とか歴史とかよく知らなくてもよかったときは自分の故郷だけ漠然と愛していればよかった。

だけどもう私たちはドイツワールドカップを目前にしているわけで面白いじゃん、やっぱ。韓国代表と日本代表がサッカーするのオもろいじゃん。ただ私が言いたいのは、近代的なNation-Stateができたとき、完璧な虚構ではなくなにかの同一性を持った人びとをまず束ねて、そこから逆算して民族の歴史を作ったり、民族の特性を作ったり、そこからできた子孫たちを同一民族と思わせているということ。そういう攻め方のほうがずっとファンシーだし説得力もあるよ。無論、小坂井は「内部=外部」、「異邦人」とかのタームを使いたがっているのだからファンシーだからといって私の提案に乗るわけがないのだが…

だから小坂井は攻め方を間違えているわけ。だって民族って虚構です、だから民族差別なんて根拠なしです、だけど人間は虚構無しでは生きれないんです、って正直何が言いたいのかわからない。人間が虚構無しで生きていけないのならその虚構に基づく差別上等なはず。だって人類が虚構なしでは存在できないのなら、人類の生存がなによりも優先されるという前提において差別は許されるわけだよね?

別に虚構上等ならヨーロッパ人が差別的な分類をしたところで結構なのじゃないのか?その虚構とあの虚構の間に溝があるのかないのかはっきりして欲しい。虚構Aが社会一般に受け入れられていて、虚構Bが受け入れられない場合それはなぜなの?ということがまったく説明されていない。

人種や民族なんて虚構であるなんて実はみんな言われなくても知っていることなんだよね。ある程度民族なんて虚構である。だからこそガキのころから我が民族はどうのこうのと教え込むわけ。だから正直、小坂井の論証だけではまったく意味ない。だけど本人はみんなが知らないことを言っているつもりになっている。小坂井のいう程度の虚構なら指摘してもしなくてもどうでもいいや。

言い直すと、結局小坂井は「人種を分別するのは虚構の基準に基づいているから人種は有効な概念ではない」といっているわけ、でも民族においては「人間は虚構無しでは生きていけないから民族という概念が現実的な力を持ち続けても仕方がない、妥協しよう」という。だったら人種の概念をそこまで否定した理由はなに?最初から、「人種というのは虚構に基づいた嘘だけど、まぁ、仕方ないや」で終わっても別に悪くないと思われる。

でも、実は「人種=虚構=ダメ」はこの本のほんの最初のほうでちょっとでてくる話で、実はこれを省いても論理は成り立つ。結局、「見えないコントロール」(ソフトなコントロール)をしろという話に無難にまとめる。その本質的な論理展開はあまり問題のない、甲論乙駁的社会学ワールドの議論としてはそれなりに有効だと思われる。

正直、数年前に読んだ後にすぐ捨ててしまった本をレビューするつもりは無かったのだが、偶然、アマゾンで6人のレビューアが6人とも5つ星をあげているのに驚いて、ちょっと子供っぽい批判口調になってみたまでである。私がレビューアなら星三つ半くらいだろう。


Further Reading:
なし
posted by 白紙状態 at 12:05| ソウル 🌁| Comment(1) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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