2005年10月21日

ノーベル文学賞と韓国

ある意味、秋の風物詩だと言ってもいいだろう。韓国では毎年のように、今年のノーベル文学賞は韓国の誰々が有力だという記事が新聞紙面を躍らせて、受賞者が決定された後は、それこそ毎年のように韓国人が受賞できなかった社説やコラムなどで理由を並べ立てることで終わる。

韓国文学の翻訳者と翻訳された韓国文学の数が少なすぎる、スウェーデンと韓国の文化が違う、韓国の国力が足りない、韓国の読書人口が足りない、東アジアでは日本と中国の存在感が大きいなどといった一通りの理由が毎年、各新聞に載り、その次の年もそのまた次の年も同じことが繰り返される。

今まで韓国で上げられたノーベル文学賞候補は金芝河と高銀二人あるとされている。されているというのは、実はノーベル賞候補のリストなど外部に流出するわけがないし、ロイヤルアカデミーも沈黙を守るからで、今年は誰々が有力だという事前情報は、ほとんどがガセだといってもいい。毎年同じ推薦者に推されているBob Dylanみたいな例外を除いて、誰が文学賞の候補だなどわかるはずがない。物理学や経済学とは違い、誰でも認める客観的にすごい発見などない文学賞の予想なんてできるわけがないはずだが、人間というものは忘れっぽいのだろう。

そういえば、毎年のように、川端と大江という二人の日本人受賞者が言及され、日本にライバル心を燃やすのも毎年のことだ。そういうことならアメリカあたりをライバル視するのがよっぽどストレッチができると思うのだが、人間の心というのはどうもそうはできていないらしい。

金芝河と高銀という二人の詩人が韓国を代表する二人の文学者とされているのは、結局のところ、彼らが民主化という政治的なバックグラウンドを持っているからである。反独裁を叫び投獄されたから、ほかの誰でもなく金芝河と高銀だという。高銀の小説「華厳経」などはすばらしいと思うのだが、詩というものがあまり好きではない私としては、別の人を推したい。だが、それはまた別の機会に書くことにする。

正直、他人事のようにいうのを許されるのなら、そんなに欲しかっとたら、新聞社などで基金を作り、韓国文学を翻訳して、世界中の図書館に無料で配布すればいいし、韓国学の教授や講師を頻繁に韓国に招けばいいと私は思う。だが、毎年繰り返されるのを見ると文句をいうのが楽しいのだろう、きっと。

海外から見る韓国文学は日本や中国を差し置いて西洋人の東洋趣味を満足させるほどの珍しさがあるわけでもなく(谷崎潤一郎・川端康成)、翻訳の過程で本質がちょっとくらい変わっても楽しめるほどの大叙事を持っているわけでもなく、地域性を越えた同時代性(村上春樹)を持っているわけでもない。
posted by 白紙状態 at 05:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍関連情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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