2005年11月19日

意識の科学は可能か:サル、脳、意識

そういえば数ヶ月前、「Monkey Business:Swinging Through the Wall Street Jungle」という本を読んだことがある。80年代を風靡した投資銀行DLJの内幕を元職員の二人が暴く、という内容で、Finanacial Sector入りしたい人たちには必読書。しかしながら投資銀行などという道をあえて選んだ人ならこの本にでる例くらいで就職をあきらめたりはしないだろう。(無論、中に入ってからのことは全然、まったくわからない)

さて、この文章が扱うのは、そっちのMonkey Businessではなく、別の、二つのMonkey Businessである。ひとつは売春に、もうひとつは脳の実験に関する実験であり、両方とも形而上学的にも物理的にも大変意義のある実験であった。


先日、気鋭の経済学者であるSteven D.Levittとジャーナリストでベストセラー作家のStephen J. Dubnerの講演にいってきた。二人は、経済学者であるLevittがいままで注目されていなかったデータや使い古されたデータを新鮮な視線で捉え、Dubnerがそれを一般向けの文章にするのを手伝うという役割分担で、アメリカの大学街とアマゾンでは一大ベストセラーとなった「Freakonomics」を共同で書いたのである。FreakonomicsはNew York Times Magazineに今でも連載されており、もちろん単行本に未収録の記事もある。そこらへんはFreakonomicsのホームページで確認することができる。この文章は「Freakonomics」の二人の講演レポートではないので、本筋に戻りたいと思う。

Freakonomics」の単行本に収録されていないネタにYale大学のこちらも若手経済学者のホープであるKeith Chenによるある実験のお話がまとめられている。かのマルクス@ヒゲ面のユダヤも言っているとおり、お金とは奇妙極まりなきものであり、最近の経済学では往々にして忘れられたがお金の本質を探ることは経済学にとって一大事なのだ。そして私とそう年の違わないわれらKeith君@YaleのProfは、お金問題に対する最終解決を成し遂げるための一兵隊さんとなるために、人類と類似した-「脳は小さく、セックルとメシのことしか考えていない」-サルにお金を渡し、それと交換に食物を与える一種の擬似的な貨幣経済を作り出す。そうするとまことに人間社会と似たようなシステムができあがる。彼らは時にはお金を奪い合ったり、時にはほかのサルが持っている自分の好きな食物とお金を交換したり、プレゼント(下心込み)したりする。無論これは実験なので、時々、ギャンブルやインフレーションを導入してみたりして消費者(=おサルさん)を愚弄してみたりもする。ちなみにおサルさんたちはハイリスクが好きらしい。サルにナニを教えるとナニにはまって死ぬまでナニするというナニっぽい話の信憑性がこれでナニゲにアップ。

この経済学的なエデンは結局、盗みと売春で汚染されることになる。それまでは通貨の量は調整されていたが、ある日、あるおサルさんが研究員に襲い掛かって、研究員が賄賂でそれを潜り抜けたとき以来、おサルさんたちのエデンは暴力と盗みに支配されることになった。無論、食料の値段は変わらないし、おサルさんに食物以外の重要な商品がなかったので結果的に通貨量の増加は新たな消費を生むことになった。最古の職業、売春である。行為の代価としてお金を貰うことが職業というならば、まさしくこれはおサルさんにおける最初の職業である。

この実験は、経済とリスクに関する諸概念は人間特有のものではないということを示す。そして複雑な概念を築き上げフェティシズムに陥るのはなにも人間ばかりではないということだ。だとしたら人間とサルの共通点はなんだろうか、私は脳の構造だと睨んでいる。このことが二番目のMonkey Businessと関連がある。


意識の科学は可能か 」という本は、2000年の第64回日本心理学学会大会でおこなわれた「意識の科学は可能か 」という座談会で行われた講演を基にしている。

意識の科学は可能か−苧阪直行
知覚から見た意識−下條信輔
身体から見た意識−佐々木正人
言語から見た知識−信原幸弘
無意識の探索から意識を探る−山中康弘

この5つのエッセーが220ページ余りの本に入っていて、知覚心理学や脳物理学らの権威たちが自分の最新の興味分野を話すという形をとっていて、なんとなく雰囲気につかりたい、という層にアピールする。この文章で特に扱いのは、2番目の「知覚から見た意識」だ。下條はCaltech(カリフォルニア工科大学)おキョウジュさんで、講演のスタイルも若干アメリカっぽく、いいたいことを数個かのブロックにまとめた後、各ブロックの最初と最後に主題文章と要約文章を入れる。だからこの人の文章は、各章のタイトルと冒頭の文章だけ拾っていけば、このおキョウジュさんの実験や主張の妥当さはわからないけれど、おキョウジュさんがなにを言いたいのかはわかる。

下條のおキョウジュさんは、今までの主流だった行動主義、すなわち「心の中の主観的なことが直接わかるはずがない、だから外からの刺激とそれに対する反応だけ研究すればいい」がお嫌いらしい。内面的なこと、どう知覚したか、どう思ったかなども十分科学的でありえるとおキョウジュさんは思っている。無論、おキョウジュさんも行動主義的な方法論をすべて否定しているわけではない。「科学的実験」を心理学の世界にもたらした行動主義は、実験を必需とする認知科学に欠かせないものである。ただ、時代が変わり、行動主義という方法論がちょっとずつ行き詰まり、今では実験を通じて心理を内側から見ることができるというのが、言い換えるなら心理と物理は歩み寄れるし、客観と主観はそれほど違わないというのが、おキョウジュさんの主張だ。

おキョウジュさんは、「網膜像に明示的に与えられている情報以上のものおを見る、知覚の特性」と「網膜への物理的刺激が消えたあとの知覚現象」に興味を持つ。実際、脳の中のいろんな部位は、それぞれの役割を持つが、ゆるやかでフィードバック回路が無数に組み込まれた連携も忘れていはいけない、まったくもって複雑な構造を持っている。簡単に言うなら、脳の一部位とある知覚が一対一でないことで、むしろもっと複雑に入り組んだ生き蠢くめいろなのだ。だけど私たちは、パソコンのCPUや基板をばらして解析することとは違い、似たような形の細胞が集まっているひとつの大きな塊に過ぎず、ばらすことも(生前には)できない。だからfMRIやPETなどのいわゆるイメージングの手法がとられたりする。

そしてMonkey Businessが登場する。

人間の脳をばらすことができないから、それじゃ人間の脳と構造的に類似したおサルさんの脳で実験しましょう、となる。そして行動主義の視点からはありえないが、精神の中側をある程度研究できる現代の技術によると、おサルさんも人間っぽい思考ができるらしい。それは上の「最古の職業@おサルさんエデン」にかんする実験でも明らかにされていて、私たち人間は孤独ではない、ということになる。瀬名秀明あたりが5年ほど前に脳とおサルさんとおカミさんについてのわけのわからない小説(「Brain Valley」)を書いていて、それから瀬名はロボット(「ロボット・オペラ」)へとその関心を移すことになる。それはある意味、象徴的なものであり、人間の同伴者を捜し求めているという面で非常にスジが通っている。

ところで、この実験に使われるおサルさんのなまえがすごい。「覚醒サル」なのである。なんか先駆者として人間支配から脱しそうな名前ではあるが、単に刺激に反応するという意味での覚醒らしい。この中の「両眼視野闘争」いうのもあるし、とにかく私をワクワクさせる名前が多い。だけどこの「両眼視野闘争」なるものが人間とおサルさんとの類似を示すことになる。専門的なことはおキョウジュさんのテキストを直接読んだほうが早いから端折る。この実験の手法がまた面白い。おサルさんの脳に電極を「さして」刺激を与えて、ニューロンをしらみつぶしに探す、というごく平凡な猿体実験だ。私的には、この「さして」というのが、「挿して」なのか、「指して」なのか、「刺して」なのか、「射して」なのか、「注して」なのか、「鎖して」なのか、それとも「然して」なのか(最後はやっぱ違うでしょ…)疑問なのだ。

素人の私にはちんぷんかんぷんな話がちょっと多かったが、それは仕方がない。それが素人の正しき道なのだから。

しかしながらこの本にあることをすべて鵜呑みにしてはいけない。脳というフィジカルであり、同時にメタフィジカルでもあるこの領域においては、いまだなにもはっきりしたことなどない。脳にノーといえない、こんな世の中じゃ、ポイズン、なんてくだらない駄洒落でも言いながら肴の酒にでもすればいいのだ。そして、おキョウジュさんのCaltechからの賃金の一部はあの電極とMonkey Businessからきたことを忘れて、「お人間とおサルさんはお仲間」とうれしげな笑みでも浮かべればいいんだ。そのときは、仲良く記念写真を撮ることを忘れないことにしよう(ちなみに動物実験大賛成派です)。


私にも、おサルさんだったころがある。それが他者の概念がぼんやりと、だが確実に築かれ始めた幼児のころなのか、爆発的なパワーで野原(i.e.近所の公園)を走り回っていた童の頃なのか、それともご立派なセイ少年だった若き日々のころなのかは、わからないが、私にもおサルさんだったころがたしかにある。そしていまや立派な自己責任を持つ成人となったわけで、もうすぐ学校を出て、社会の門を潜ることになるわけで、それでも自分はそのおサルさんだったころとあまり違わないことに気づいてしまったわけで…それが今回のテーマなわけで、ちょっとやるせない気分になったところで今日3回目のお風呂に入ることにしよう。なぜ一日に3回もお風呂を沸かすことになったのかの顛末についてはいずれ「白紙状態」のほうに書くことになるだろう。




追記:あるアナロジーが紹介されていた。(かいつまんで要約)
-知覚意識の「神経対応」という言い方に疑問がるのです。
-指演算の得意な人がいて、たまたま指に怪我をして演算ができなくなった。さて、この人の指演算の中枢は指だと断言していいか
-脳内でそこが壊れたから演算ができなくなったからといって、それを演算の中枢というのはおかしいのではないでしょうか。
-他の場所もじつはそこに至るプロセスとして必要不可欠であり、その結果がその部位に集中的に「析出」しているだけ、
-最近、盛んにNCC(意識の神経対応メカニズム)という言葉が聞こえます。フランシス・クリックあたりが好きですね。
-NCCがないかもしれない、だけどこの作業を続けていたら何か別のものが見つかるかもしれない。

-知覚のより本質的な内実(クオリア)、自分にしかふれることができないという特性そのものに、これまでの知覚研究はまったく肉薄していない。
-しかし、知覚の心理物理実験というものの、自他の相互理解に依存するという構造上、この問題は原理的に、はじめから抜け落ちざるを得ない。
posted by 白紙状態 at 14:27| Comment(4) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こういうアイロニーの利いた文章好きですよ(笑
人間は最も劣った種族である、と思ってますから。
ですから「猿の惑星」とかも大爆笑でした。
では
Posted by じーじょ(有沢) at 2005年11月26日 21:20
「猿の惑星」いいですねー。ティム・バートンのリメイク版はあまり好きではありませんが、オリジナルのシリーズはいろいろシリーズを通した仕掛けなどもあり結構何回も楽しめる極上モノでした。
Posted by 白紙状態 at 2005年11月27日 09:48
映画は見てませんが、原作はテンポもよく、
しかも人間への痛烈なアイロニーが込められてます。
原作はピエール・ブール(だったかな?)という作家です。
ページ数が少ない割にはよく書けてる小説だと思います。
では
Posted by じーじょ(有沢) at 2005年11月27日 10:19
小説もあるんですか、暇ができたら一回呼んでみたいものです。
Posted by 白紙状態 at 2005年11月27日 11:28
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