2005年11月26日

長靴をはいた犬:神の声を聞く神性探偵による救い

さて、山田正紀という小説家がいるということにしておこう。たとえば、その山田正紀が30年以上小説を書いてきて、それもSFとミステリーというファンダムの強いジャンルに取り組んできたとしよう。そして彼がその職人的な技と器用さで玄人受けのするベテラン作家として名を上げたとしよう。彼の作品のあとがきには、自分の作品がどうしても好きになれないこと、数多くのシリーズものを中断させてしまった自分への嫌悪、自分を嫌悪する自分への嫌悪、などが同じようなパターンで繰り返されていて、ある意味これすらも職人芸の領域に達してきたことを仮定しよう。山田正紀のデビューの年が、1974年、彼が来年の私と同い年だった24歳のときで、今の私と同じ年のころは、もうデビュー作の原稿に取り組んでいたとしよう。そのデビュー作のタイトルが「神狩り」だったとしよう。そして彼はずっと「神」を題材に小説を発表してきたとしよう。すべてを仮定しよう。何もかも霞のようにくっきりとした事実と仮定しよう。

でも、仮定したところで山田正紀が実在の作家で、上のようなプロフィールを持っていて、私が彼の作品をこの四、五年ほど読み込んできたことには違いがない。しかしながら私は、なぜか彼を語るとき、上のような奇妙な言い方を選びたくなった。なぜなのだろうか。ただ語尾を延ばしできるだけ長い文章を仕立て上げたかったのか、それともくだらない技巧のためなのだろうか、または彼が私にとって忌むべきものであるのだろうか、わからない。まったくといっていいほどわからない。ただ、彼の作品の持つ、ぼんやりとした不安感、漠然とした絶望感、薄汚い希望の予兆が混じった雰囲気に即された語り口なのかもしれないと自分で診断してみる。そういう診断すらなんの意味があるのだろうか、と奇妙な笑みを浮かべながらタイプをする両手を動かすことを止めたりしない。

神狩り」のあとがき、初版から30年たった後の文章において山田正紀は次のようにいう。「私はそのしょうせんはジャンル小説にすぎないものから、なにか非常に重要で偉大なものを感じ取らずにはいられないのだ」、と。とにかくだから彼は神について書くのだろう。神についていろんなヴァリエーションを描くことのできるSFという舞台で、時には正義の神であったり、時には嫉妬する神であったり、時には無常の神であったり、本人の宗教観にとらわれず、ただ本人の考える神についての多様な感覚をこれでもかというほど放り込んだ文章を山田正紀には書くことができる。ドストエフスキーの神、三浦綾子の神、トルストイの神、ロバート・A・ハインラインの神は個人にひとつしかいないが、山田正紀の神は彼が見たい数だけある。そして山田正紀は本人が自任するように、「想像できないものを想像する」人間なのだ。

そういう山田正紀の神についての作品の中に「長靴をはいた犬」というものがある。

しかし「長靴をはいた犬」という作品について述べる前に、その前の作品である「神曲法廷」なる作品を見てみる必要がある。東京地検の検事、佐伯神一郎は、昔は文学青年でダンテの神曲が好きだったこともある。最近は精神を病んでおり、休職中だった。そしてある日、彼は「正義は果たされなければならない」という声を聞き、それを神の声だと信じ、ある殺人事件の解決に挑む。だからこいつは電波なのだ、と言い切ることができる。作家が電波だから探偵役も電波かよ、とシニカルに突っ込むこともできる。だけどこの作品はある意味、ミステリーの根本的な問題−と一部では言われていること−の回答のひとつなのだ。そう、残念ながら電波ゆんゆんのこの作品こそがある意味回答なのだ、例の「後期クィーン的問題」とやらの。

小説の中の探偵は、自分の判断が正しいと、神のように他人を裁いても善いと確信することができるかという問題なのだが、ある意味、まったく無価値(だってそんなの「紙面の関係上、探偵は完璧という設定です」で終わっちゃうし)なのだが、しかし思考をもてあそぶという面においては結構面白い思考実験ではある。現実世界では一種のあきらめを導入し、法廷では「後期クィーン問題」などだれも論じたりはしない。人間は不完全で、人間が立証できる真相など限られているが、しかし犯人を見つけ裁くのが我々の司法システムである。だが、とにかく「神の声」を聞き、絶対的な真相をもう授けられている探偵なのだからそれに符合する証拠だけを集めて提示すれば、そこで事件は「正しく」終わらせることができるのだ。それが山田正紀の提出した「後期クィーン問題」への回答である。それこそ有名な川柳、「探偵は皆を集めて『さて』と言い」のごとく。無論、佐伯もその「神の声」とやらが自分の精神の異常のせいで起きた異常-精神分裂-なのかどうか悩むし、彼のいる東京は神曲における地獄に似せられる。だから彼は神に嫌われる人間のように、神を拒み、神を嫌う。だけど神の恩寵なるものは重力に似て、逃れることができない。(私自身はちゃんとした無神論者なんですけどね)

だったら、ここまでだったら別に「長靴をはいた犬」の書評ではなく、「神曲法廷」の書評として書いたほうがよかっただろう。だけど本稿において私が指摘したかった面は、「長靴をはいた犬」にだけ登場する望月幹夫の救済である。望月幹夫、新鋭の犯罪精神学教授。学術的な評価は高いが傲慢である。こういうことが事件と引用文を数個ならべたプロローグに続く、第一章の冒頭で語られている。主観を交えた三人称で。この書き方は実は、山田正紀のデビュー作でもある「神狩り」でも行われていて、ヴィトゲンシュタインの引用と「それは、薊でなければならなかった」から始まる彼の生前の姿の素描がプロローグとして、その次にくるのが第一章の島津の紹介部分になる。彼も望月と同じように学術的な評価は高い若手の研究家だった。島津は情報工学と言語学のエキスパートだが、望月と同じく傲慢で他人に評判が悪い。無論、両方とも男で未婚だ。

だが、「神狩り」は、論理階層的に人間より上にいる「神=真相」の姿を認識し、人間を嘲う「神=真相」と戦う島津の物語だった。だけどついに「神=真相」と本当の意味で戦うことはなかった。逆に「長靴をはいた犬」の望月は、神と人間の媒介である佐伯と知り合い、真相へ導かれる。まるで「神曲」の中のダンテのように。だから「神狩り」はあえていうなら「島津=望月」の敗北の物語だったが、「長靴をはいた犬」はかえって「望月=島津」が神へと至る物語になり、安易といってもいい和解と救済が演じられる。

私は救済の物語が好きだ。安易なら安易なほどいい。チープでありふれた、安っぽい救済の物語こそ私が好きで好きでたまらないものだ。チープでありふれた救済が、窓の外にあって、まるでドライブスルーかなにかのように、窓を開けて紙幣を差し出したらお釣りとともに出てくる世の中を夢見るのだ。長渕剛ではないけど、「賽銭箱に、百円玉投げたら、釣り銭出てくる人生がいい」と思う。
posted by 白紙状態 at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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