2006年03月04日

「海をわたる蝶」:童の頃の私はただの童で、今と変わりなくって、すごいもののすごさを知らず…

子供頃、大阪の東住吉区に住んでいた。後にサッカーの長居スタジアムが建てられる長居公園のすぐ前で、当時住んでいた10階建てのアパートの一番上の階から、決して小さくない長居公園の全景が鳥瞰できたことを覚えている。その長居公園には、植物園と自然史博物館があって、私は時々、夏休みなどは、一週間に一回ほど出かけたりした。

大学の頃生物学を専攻した私の母が、自然史博物館の巨大な蝶のコレクションを眺めながら驚嘆したりした。その頃は、まだ私の国には本格的な自然史博物館がなかったから、母には余計、印象的だったはずだ。無論、私は蝶よりは恐竜に興味があったし、大体生物学や博物学に興味はまったくなく、花の名前もろくに覚えられないやつだったので、ただ色とりどりの珍しい植物やややこしい名前をした滅びた種の標本を眺めながら、時間の過ぎ行くのに従順すぎるほど順応していた。

その自然史博物館の蝶のコレクションに深くかかわっていたのが、本書「海をわたる蝶」の著者である日浦勇だった。彼は自然史博物館が長居に移転する時の学芸員であり、蝶の研究者でもあった。本書はそんな彼のフィールドワークを元に、蝶が海を渡り、生殖地を求める活動を手堅く整理する。そしてそれを元に、それまでの博物学とは違う第四紀(100万年前から今まで)学としての自然史を日本に打ち立てた人である。そしてその蝶のコレクションこそが自然史の普及教育に励んだ著者の、自然史観を象徴する転じである。逆に、本書はその新たに移転する博物館のディスプレーを考えるために書かれたということが解説にも書いてある。そして「博物館の展示を全面更新する予算がいつまでたってもつかないので、幸か不幸か今でもその展示を見ることができる

もしかすると、30年前に出版された本書は、もはや「歴史的な意義」というのしかない本かもしれない。だけどある人が誠実になにかに取り組んでいたことへの証明というのははっきり残ったり、彼の意図しない読まれ方=彼のディスプレーを観て育った人の戯言があったりする。

私にとって自然史博物館というものはそういうものであったのだが、実はこれは結構革命的な博物館であり、母が驚いて当たり前のある意味、身近なグレイトネスだった。そして私はそれをそれと知らず戯れに浪費しただけの童だった。そして世界全般について他人に誇れるだけの知識が無い限り、永遠に童の視線でしか世界を見れないと思うと少し悲しくなる。
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2006年03月03日

「半分の月がのぼる空」:この世に残ると言うことを、伊勢に残るということを、意思を残すと言うことを…

主人公は、高校生。閉塞感の漂う三重県の伊勢市に住む、ごく普通の高校生。

面白おかしげな友人たちもいるし、ひと癖もふた癖もありそうな心優しい大人たちに囲まれている。彼は裕福な家の子供でもなく、むしろ貧しいほうで、いつかは東京に進学しようと思うけど、そんなに前途有望というわけでも努力の人というわけでもない。そして彼はある日、心を開かない病弱な美少女に恋をする。これはそういうありふれたラブストーリ。

病弱である少女は、生を否定し、そのまま死に逝くことを願う。
漠然な夢をみる少年は、大学は伊勢を出て上京することを希望する。

その二人が恋をする。そして少女は生を受け入れ、少年は彼女とともに伊勢で生きることを決心する。不器用な物語だ。主人公の若干気取った「十代感」丸出しの一人称や、ありふれた記号的な登場人物たちは、いわゆるライトノベル系の典型であり、だからこれを優れた物語というつもりも無い。だけどそういう形式でしか語れない物語があると私は思う。無論、私は、キャリアウーマン(女性総合職)の話はドラマかマンガでしかできないと思い込んでいたのだが…ご存知の通り、今度の芥川賞作品「沖で待つ」が女性総合職の物語だった。

全6巻のうち、物語は5巻で終わり、6巻は後日談である。作者によると
限りある、終わりの見えている人生にどう向かい合っていくかを書いてみたかった。覚悟に至る日々を書いてみたかった。死ぬことではなく、生きることを書いてみたかった。
(略)いつの時代にも必ず書かれる、ありふれた青春小説でしかない。あえて繰り返します。この六巻は、ただの後日談です。十八歳になった男の子と女の子の、平凡な日常が描かれているだけです。そしてこれが、半分の月という物語をスタートさせるとき、僕が必ず書こうと思っていた「ゴール」です。
ということだ。そう、この物語は、平凡と生と日常を肯定するためのものがたりである。

普通、闘病モノでは、生きることを肯定&恋愛の成立か、もしくは死で終わる場合が多い。それは「閉じられた」世界の出来事である。だけど「半分の月がのぼる空」は、そうではない。もっと広い「開かれた世界」に対する肯定。病弱なヒロインが生きることを単に肯定するのではなく、もっと広い、たとえばこの世界自体を主人公と二人で肯定するまでの物語のように思える。

…無論、上京をやめさせるほどの運命の女の子なんて、それこそ夢物語でフィクション的なことかもしれない。だけど、それこそが小説の効用なのだろう。

なんだか支離滅裂な話になってしまった。結局、この感覚を理解するためには、読んでみるしかないだろう。そして里香(ヒロイン)に萌えるしかないだろう。
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2006年03月02日

「ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝」:ケチャップの皇帝萌え

まず本書は三つの意味で驚かせてくれる。まずは、バーナンキがFRB議長に指名されてから一ヵ月半で書き上げられたこと、帯に「日銀はケチャップを買え!」と赤い文字で書いてあること、最後にバーナンキってカッコイイけどハゲ気味だということ。

そして本書は、三つの意味で役に立つ。まず、現在進行形のマクロ経済の議論に加わるための基礎理論を丁寧に説明してもらえること、バーナンキという学者の研究をおさらいしてもらうこと、そして最後にどうやら日銀はケチャップを買うしかないと説得されること。

たしかに日銀はケチャップを買うべきだ。日銀はケチャップを買ったり売ったりしながらインフレーションをコントロールすべきであり、超長期的なデフレーション下の日本では、インフレーションを起こすことが重要である。そして日銀はハインツのケチャップではなく、もっと日本のケチャップを買うべきだ。結局、公共事業とか商品券ばら撒きとかと同じようにケインジアン的総需要(=GDP)の不足を補うためにインフレターゲッティングは成される。

だけどアメリカやEUなどの「なだらかなインフレ状態」にある国々がインフレターゲッティングを選ぶことと日本という稀有な「継続的デフレーション」の国がインフレターゲッティングを選ぶことではまるで意味が違うのではないかと私には思える。「なだらかなインフレ状態」からインフレターゲッティングに突入するのは、ある意味、庭園に元々ある木々の成長をコントロールして、手入れして、熊とか犬模様の木々を造りたいと思うことで、「継続的デフレーション」という状況下でのインフレターゲッティングは、森の木々をまず刈って、それから庭園を造ることからはじめるように聞こえる。そして私は、各個のインフレターゲッティングには賛成するが、デフレーション脱却のためのインフレターゲッティング(デフレ脱却)とその後のインフレターゲッティングは別物として扱われるべきであるような気がする。

無論、デフレーションは消費意欲を沈ませ、現金への信仰を深めるだけで経済が回らない原因になること自体が問題だ(そもそもそんな自転車操業みたいな資本主義がいけないという話になりかねないけど、まぁそれはエロとかグロとかが好きなフランスのバなんとかというおっさんに任せることにしよう)。

だからインフレターゲッティングを日本で実施するしかない理由は一つで十分なはず。インフレターゲッティングの一般的な効用を肯定するわけではないが、デフレ脱却が必要だという意味では、インフレを目標とする(ターゲッティング)派に私も属する。

デフレーションのせいで実質金利は(景気が加熱しているわけでもないのに)意味も無く高くなるばかりだが、名目金利をマイナス(借りれば借りるほどお金をあげる)にしたらモラルハザード、すなわち制度の意図せざる用途ができ得る。なので実質金利を下げる残された唯一の方法は、いったん安定したインフレを起こして名目金利をプラスに転化させた後に、デフレ期待のために冷え込んだ消費をインフレ期待を利用して促進させて、実質金利を下げる圧力源とする。金利が上がっているのに金利が下がるというシチュエーションを理解させるのがちょっと難しい。そしてインフレ目標を達成できない場合は、「ジャンクばかりいる日銀」(byバーナンキ)の市場調停力が無いと思われるor無いことがバレルのが問題かな?少なくともゼロ金利などという自縛的なシチュエーションを肯定できる日銀ってバカじゃないのか?という面では、ベン・ケチャップの皇帝・バーナンキさま萌えである。

だから最近、日本の新聞にちょくちょくでる「デフレのせいで日本人の金利所得はこんなに減ったのですよ」という論は実に簡潔で、インフレターゲッティングなしでもデフレ退治のための共有された理解ができあげることができそうだ。その場合、実質的にはインフレが公共のターゲット(目標)になることは十分ありえる。無論、その場合は、中央銀行の独立性など世論の前で踏みにじられることになるのだが。無論、このコンボが実際に成りたつのかはまた別の問題だけど、延々と続くデフレというおバカなシチュエーションよりはずっとましなはずだと私には思える。

そして思うに、この本は、バーナンキ萌え成分が足りないね。(断言)

さて、ではなぜ素人の私がこの本を買うことになったのかについて最後に書こう。まず、バーナンキ就任のニュース(「ヘリから金をばら撒け」発言に注目していた)を見てた母にインフレターゲッティングと90年代末の日本の商品券ばら撒きと何が違うのかと聞かれたとき、一応答えたえることはできたのだが、もうちょっと理論的な面からこの問題を知る必要性を感じたのと、本書の著者である田中秀臣が「世界で最初のバーナンキ本である」と書いているからだった。だから日本旅行の折に本書を買った。そしてまた下らぬものを買って来たと母に叱られた。まったく、世の中というものはうまくいくことが少ないのだ。それは経済学の世界でも、私の部屋の増え続ける本たちとの戦いでも、正しきことが成されることは少ないし、正しいことが正しい結果を導くこともまた少ない。というか、ジャンクだらけの日銀などといっている人(この場合は、著者の田中)が、日銀にインフレターゲッティングをやれというのはちょっとおかしいね。

日銀が公約を守る意思と能力が無いと思っている人たちが、日銀がバカ正直に公約を守ることが最低限の必要条件である理論を打ち出すってこと自体が矛盾じゃないのかな?日銀が公約を守らないor守れないと分かった場合は、ハイパーインフレがおき得る(可能性として)ことは否定できないはずなのだが…。




追記:田中秀臣という経済学者(のブログ)をなぜ知ったかと言うと、もちろん彼の冬ソナ論経由であったけどね。
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2006年01月29日

日本探偵小説全集6 小栗虫太郎集:ここまでセカイにたいする悪意を明確に打ち出した小説はそうあるものじゃない

本書は、日本推理小説の歴史に残る奇作「黒死館殺人事件」や日本人は一人も出てこない密室犯罪モノである「完全犯罪」などの小栗虫太郎の代表作を含む。いろんな人によって何度も何度も語られている作品と作者なので、私などに語れることはほとんど何もない。だけどあえて屋上屋を築く無謀さを発揮するのなら、それはそれでこの偉大なる滑稽なる作品に一つの賛美歌(供物でもいいけど…それは別の機会のために取っておくとして)をささげることくらいはできるだろう。まず、1933年のことである。

1933年の小栗虫太郎のデビューはある意味伝説的な趣を持っている、といっても有名作家なるものは非凡なるデビューをするのが常であり、江戸川乱歩が「悪霊」の連載中に逃げ出し、それを埋めるはずだった横溝正史が結核で倒れたことによって、代役のそのまた代役と選ばれたのが小栗であった。正確に言うと別名義で、以前作品を発表していたりしたらしいのだが、一応のデビューのこのときの「完全犯罪」からとする。

この中国の片田舎で少数民族の共産主義兵団の将校たちが西洋人の館に泊まる最中に行われた密室殺人を扱っている「完全犯罪」なる短編は、今の読者からしてみるとそんなにおかしくもなんともないトリック&設定なのだが、当時としてはものすごいものとして認められたという。

なぜ「完全犯罪」は日本ではなく、外国(中国)にその背景を置いたのだろうか。この問題に直接答えを出すことはできないが、いくつか仮説を用意することならできる。まず遜来の日本家屋においては「密室殺人」なるものが不可能だといわれていたことが一つの理由だと思われる。まるで「日本語でロック(orラップ)は可能なのか」という論争と似ていて、推理小説が輸入された頃には、完全なる密室の中での殺人なるものが日本式家屋では不可能であるという説が有力だった。なぜなら襖と床下と天井裏で部屋がつながっている日本式家屋は西洋の「鍵」の部屋とは違い密室を・りにくかったからである。だからこそ日本家屋での密室殺人を扱った横溝正史の「本陣殺人事件」や高木彬光の「刺青殺人事件」が高く評価されているのである。

それはもし、推理小説なるものが日本で成立していたら問題にならなかったはずであり、あくまでも「学ぶべき先達」が西洋の大作家たちであったことから、彼我の文化的違いがあったことからその学習がうまくいかなかったことの象徴的な問題である。これで乱歩の小説が本格というトリック中心の見方をするとつまらない駄作であるという例の問題を説明することもある程度できると思う…

だからその違和感を和らげるために舞台とそのディテールを西洋・外国的趣向で埋めるという荒業がでる。日本語のラップがおかしいと思う日本人は英語でラップするしかないじゃないか。(ラップなんてしない人が大半なのだろうけど…)小栗のやりかたは方法論的に正しく、実際に小栗はデビューの次の年に同じ路線の「黒死館殺人事件」という最高傑作をものにする。

無論、「完全小説」という小説が実際そういう理由をもって、中国を背景に選んだのかは分からない。しかし小栗の外国趣味、もっと正確に言うと西洋オカルト趣味はこのデビュー作から現われているし、数少ない彼の本格推理作品の中で日本の白系ロシア人を扱った「聖アレキセイ寺院の惨劇」やハムレット劇の上演をネタにした「オフェリヤ殺し」などに引き揃がれていいる。

徹底的に西洋の意匠を用いたこの「推理」&「密室」小説は、読者としては一回も行ったことのない西洋(っぽい雰囲気)のファンタジー的な効果ももたらす。私たちが通常ファンタジーとよぶ異世界の話、すなわち私たちの世界からいろんなものを除して異質感を出す引き算的ファンタジーではなく、いろんなものを足して足して足して幻惑を誘い、既知を惑わし、彼岸へと誘う足し算のファンタジーである。実際の小栗は「黒死館殺人事件」を書いた後にも関東から外へは出たことがないらしい。晩年にはマレーにも行ったらしいけど。

普通、小説に於ける衒学主義は、主題への導きや雰囲気作りに用いられることが多く、推理小説における衒学主義の代名詞であるS.S.ヴァン・ダインの作品でもそれ以上のことはない。しかしながら作品の流れを壊してまでくどいほど続けられる探偵役の薀蓄は、暴力的とまでいえるだろう。乱歩によると「黒死館殺人事件」は「文学以前の素材の羅列」であり、「作者が彼自身の探偵小説のみならず、世界の探偵小説を、この一作によって打切ろうとしたのではないかと思われる」らしい。

普通、小説なるものは上手なものでも下手なものでも、ストーリとテーマで成り立っていて(学術用語のストーリとテーマとは違うけど…)それらのために作者も、素材も、背景も、登場人物も、ほかのいろんなものも奉仕している。だけど、この作品と作品内の「セカイ」はプロットと装飾(衒学主義のディテールのこと)だけで成り立っている反「推理小説」であり、乱歩が一目で見抜いたとおり「作者が彼自身の探偵小説のみならず、世界の探偵小説を、この一作によって打ち切ろうとしたのではないかと思われるほどの悽愴なる気迫」が確実に内在している。これは確実なる悪意であり、「セカイ」を終わらせようとする気迫がある。

だから彼の絶筆が終戦直後の未完成の長編「悪霊」であったことは、小栗のデビューのきっかけとなった乱歩の「悪霊」とのかかわりだけではなく、その「悪意と気迫」がいったいどこへ至る予定だったのか、それがなぞであるからにして残念であり、また幸いである。だってもしそんな「梟の巨なる黄昏」(By笠井潔)みたいな小説読まされても困るし…、それ読んだらもう他の本読めなくなりそうだし…。


Further Reading
1.「黒死館殺人事件について」:黒死館殺人事件の以上なるまでの薀蓄満載ぶりはここを読むだけでいや!というほどわかります。
2.「昂奮を覚える
posted by 白紙状態 at 23:39| ソウル ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月27日

容疑者Xの献身:確かに独創的なトリック、で、それがどうした?

これは本書の序盤でわかることなので伏せておいても意味が無いので、素直に内容をばらすと、本書は好きな女性の犯罪を隠すために自ら泥を被る「純愛」男の話である。今まで人間が描けてないという理由で直木賞をもらえなかった東野圭吾に直木賞をもたらした作品なのだからどんなものなのだろうかと期待して読み出した。たしかにこれは佳作である。このトリックに前例があるかもしれないが、すべての要素が無駄なくトリックをかっこよくキメルために奉仕しているし、探偵が犯人を尊敬しているからこそトリックを見破ることができたというのもまたいい。

だけどこれが世間で言われているような傑作であるかといえば、やはり否というしかないのだろう。小説の中ならどこにでもいそうな、でも実際はあんまりいない、紋切り型の単純な人物ばかり。たしかにそういうやり方はトリックを際立たせる役割があることは確かだし、私とてそれに突っ込むような野暮な性格は持ち合わせていないのだが、これを読んで「純愛です、感動です」というのはいかがだろうか。図式としての「純愛」はたしかにあったし、作者の提示する読み方(なるものがもしあるのなら)はそうだろうけど、私は正直あまり心に感じるものが無かった。

そして二つの意味でまったく救いのないエンドには呆れた。お涙頂戴と犯罪は罰せ無ければいけないという考えがなんの考えもなくただ配置されていること以上の何にもなさそうなエンディング。まったく人間が描かれていないことで有名(?)な綾辻行人の「十角館の殺人」あたりのラストのほうがよっぽどこれまで絶え間なく提示された類型的な「人間」の典型から逃れた(あれはあれで漫画チックなのだが…)

「人間を描けている」要素はたくさんあるけど、これじゃただ数式を並べ立てているのとなにが違うのだろうか、と私は思ってしまう。東野圭吾最高傑作はやはり「悪意」なのだろう。無論、この作品のトリックがダメだと言っているわけではない。全体的な完成度も、エンタテインメントとしての価値も、純愛純度も文句のつけようのないものだろう。散々いったけど「人間」を描けていたのもある意味事実である。だけどそれが「類型」的な、カッコつきの「人間」であると私には感じられる。


それと「同じ人間を二度殺すことはできない」とかいっているけど、警察なめているよね?これって…。


Further Reading
1.「悪意」:私が選ぶ東野圭吾の最高傑作
posted by 白紙状態 at 21:07| ソウル 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月17日

超殺人事件−推理作家の苦悩:おめでとうございます。

前回、「言壺」に関する文章で、叙述支援ソフトのことを若干書いてみた。それから東野圭吾の「超・殺人事件」という短編集のことを思い出したところ、本日、東野圭吾が直木賞を受賞したというニュースが流れ…なんとなく書くことも無いのに書棚にあった東野作品を取り上げてみる。

この短編集には、いろんな戯画化された推理小説家がわんさか出てくる。ある小説家は税金対策のために、連載中の小説のプロットを捻じ曲げ自分のハワイ旅行やリフォーム費用を経費で落とそうとしたり、理系の薀蓄をこれでもかと言うほど詰め込んだ怪作とか、高齢化社会の影響として読者も作家もみんな呆けてしまった推理小説業界の話とか、読者の代わりに本を読んで、それのあらすじと評価と書評をでっち上げてくれる機械がついには文学賞の傾向と対策を作ってくれる「超読書機械殺人事件」などがある。

東野圭吾は、きわめて器用な作家で、「悪意」みたいなきわめて「心理」的な作品を書くこともできるし、「白夜行」や「秘密」みたいなセンチメンタルな作品、「どちらかが彼女を殺した」のようなきわめて緻密な犯人当てパズラー、「あの頃ぼくらはアホでした」のような爆笑青春エッセー、「名探偵の呪縛」や本書のような推理小説・業界の約束事をパロディにして笑うということができる。間口の広い作家だ。

その中でも本書はきわめて異質で、「名探偵の呪縛」では推理小説のお約束をパロディにしたのだが、今度はそれ以上に推理小説を取り巻く人々をパロディとした。曰く、「日本推理作家協会、除名覚悟!作家、書評家、編集者みんなまとめてメッタ斬り」らしい。直木賞に初めて落選した頃に書かれているので、実はそれが理由だったりするのかもしれない。類似作の竹本健治の「ウロボロス」シリーズは実在の推理作家を登場させて笑いを取る趣向だが、本作はそれでもなく、推理業界のお約束を笑うのだから実にマニアックだろう。

…面白いのだが、書くことがない…。とにかく本日のテーマはたった一つ。東野さんおめでとう。七年目の正直ですね。
posted by 白紙状態 at 22:22| ソウル | Comment(1) | TrackBack(1) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月16日

言壺:あまり面白くない突っ込みを少々

物語の形式が複雑・複合化し、「ワーカム」という「マルチメディア」風のワープロの進化形みたいなものなしでは物語を紡げない近未来。或る作家が突然、「私を生んだのは姉だった。姉は私をかわいがってくれた。姉にとって私は大切な息子であり、ただ一人の弟だった」という文章を思いつき、「ワーカム」に入力しようとしたところ、「ワーカム」のチェック機能(英文ワープロの文法チェック=F7みたいなもの)に入力を拒まれた。意味が通らないという。「ワーカム」はいろんな代案をだして文章「姉=母」を拒む。そして世界は揺らぎ始める…という表題作が印象的な神林長平の短編集。ちなみに「言壺」は、第16回日本SF大賞受賞作品。

私は神林の愛読者なのだが、二つの面からこの作品が非常に気に入らない。

まず、「ワーカム」という古臭いマルチメディア&インタラクション主義に基づく機械が鬱陶しい。まるでCD-Romが最初に出てきた頃もてはやされたハイパーテクストなり、動画+文章なり、サイベリアなりの「映画+小説」、「音楽の出る小説」のような古臭い意匠は、もういい。ダサすぎる。その進化形であるはずの(いわゆる)ビジュアルノベルの愛好者である私がいうのだから間違いない。

でも「ワーカム」的な叙述支援機能はこれからも利便さを増すだろう。(いまでもブログペットやドクターバロウズなどの原始的叙述支援ソフトがあったりする)

二つ目は、「私を生んだのは姉だった」という文章がなぜ「非論理的」で「言語空間を揺らす」のか私にはわからない。通常の社会では認められていないが、父の再婚相手が姉だということは物理的には可能である。動物の世界ならもっとありえるだろう。

シャチが話者の小説で「私は生まれてこの方ずっと海の中で、海の水を飲みながら暮らしてきた」といえないなんてシャレにもならないじゃないか。これくらいのことで混乱を起こしそうなソフトを売るのは背任行為ではないのか?言葉で表わすことのできるすべては論理的である、という考え方を哲学から引く必要もない。一ビット言語しか表わせないソフトを日本語(2ビット)のワープロとして売り出すようなバカっぷりではないか?

神林は「現実と非現実の揺らぎ」が持ちネタ(繰り返すモチーフ)なのだが、この作品はあまりにも考えなしに自分の持ちネタを繰り返しているだけではないのか?


追記:昨年は一冊も新作を出していないのだが…なんかあったのかな?神林くん。


Further Reading:
1.「戦闘妖精・雪風(改) 」:神林入門にはうってつけの作品。
2.「小指の先の天使」:同じく言葉・現実の問題についての短編集。
3.「ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951」:現実とか非現実とか論理とか言語についてSFチックに考えるとき、この方を避けては通れないでしょう。
posted by 白紙状態 at 17:09| ソウル 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月15日

民族という虚構:結局、虚構Aが善く、虚構Bが悪いという理由はなんなの?

民族と言う虚構」は、数年前に読んで、内容自体はそれなりに面白いのだが、言っていることのバックアップがまったくと言っていいほどダメだったので、そのまま駅のゴミ箱に捨ててしまった。この文章は、そのときのメモに手を加えただけなので、口調が砕けていたり、同じことが繰り返されていたりする。

パリ第八大学心理学部助教授で波乱に満ちた人生を歩んだ(らしい)小坂井敏晶の本。本屋で見かけたこれの韓国語版は真っ黒の表紙に細めの赤い文字で決まっているなかなかすごいセンスだったことを覚えている。

本書の内容と言えば、ここ数十年、みんなが「民族」というタームについて繰り返し言っていること、すなわち「民族の同一性」というものは虚構である。しかしこれは民族が現実的な力を行使しないということではない。人間社会は虚構でできているし…という話。当たり前で、理解しやすく、現代社会に求められているシャベリをしている。

だけど、この線をもう少しだけ延長しちゃうと「人間の集りとは虚構である」ということで、この言い回しは家族や国家やその他の諸々も虚構だと証明することができる。たとえば「家族=虚構」説。当たり前すぎて全然ショッキングじゃない。「空気には酸素が含まれている」くらいのインパクトしかない。無論、小坂井もそれくらいは知っている。だけどちゃんとした論考できているならべつにかまわないが、後に書くけど、この本は致命的なミスがある(と私は思う)。

この本はまず「人種」という概念を潰すことから始める。まず、大学の人類学の一番最初に学ぶのが人種なんてあまり科学的意味のない便意のための暫定的な分類でしかないと学ぶ。小坂井の議論はそれの延長線上にある。白・黒・黄の人種区分は、19世紀の西洋の人たちが西洋=白人中心的な考え方をしたために生まれた虚構であり、実はそんなにはっきりと区別できるわけではない、というのが彼の主張だ。

しかしこれはABO型で分類できたり目の色で分類できけど、白黒黄色の分類が19世紀の西洋中心でなのでそういった分類はしてはいけません、という理由にはなっていない。それじゃまったく分類しないのか、なぜ19世紀の西洋中心の分類を今使ったらいけないのかということに対しての答えにはなってない。たとえば、ヒスパニックという概念が根拠なきものだと証明(小坂井程度のものなら)できる。ブラックとヒスパニック、ヒスパニックとホワイトのきっぱり割り切れないということくらいいくらでも述べることができる。だけど科学というものは単純化してモデル化することなしではなにもできないので、人間が「分類」をやめないかいぎり小坂井の人種区分に関する主張は実現化されない。そしてもっとおかしなことに、「あいまいだから」という理由で人種という概念を遠ざけた小坂井は、同じく「あいまいな」民族概念は弁明や理屈っぽいいいかただけど結局、理屈のない言い方で認めている。

繰り返しになるけど、「肌の色や髪の毛の形が欧州人と非欧州人を簡単に別けられる基準だったので肌の色や髪の毛の形を基準に人種を決めることになった」とかいっても、小坂井が自分で認めているようにもともと人種というものが科学というものでコミュニティを作り上げた欧州社会の人々が自分たちと自分たちでないものをわけるために作り上げた概念なのだから自己言及的堂々巡りなのだ。

「私たち」と「彼ら」という概念が先にあって、彼我の漠然な距離感をどうやって表したらいいのかわからなったので科学者たちが悩みました、で、髪とか肌だったら最大公約数を見つけることができるかもってサッカーが言いました。That's Sucking it。

人種なんて科学ではない社会・文化学的な便意のためのでっちあげだ、とかいってもいいけど、それじゃ実は言語の分類なども政治色強すぎるとちゃんと言わなければいけないのに、小坂井はまるで人種(及びに民族)が特異的におかしいとでもいいたげな書き方をする。学部卒でしかない私に言わせてもらえば、文系の概念なんてそういうものだ。

脳科学あたりを引用してもいいけど、分類癖は人間に備わった基礎的な(本能的な)機能なんだからそれに文句言っちゃおしまいよ。だったら各単語を名詞だ動詞だと分類している広辞苑(出だしで引用している)から文句つけないと。

この本の註にも書いてあるんだけど、植物の中には異種繁殖が可能ややつらもいて、じつは種というのも完全な分類ではない。だけど種というカテゴリーの仕方がなんか悪いのかというと別に小坂井はそんなことは言ってない。だったら別に民族が虚構だろうがどうだろうが文句言う必要はないはず。

たとえば、家族の形態はいろいろあり、法律と条約によって記述される概念以外においては標準的な家族というものを一言でいうことはできない。だけどやはり婚姻関係をベースとした家族という概念はある程度共通であり、それと同じように民族の分類の仕方がはっきりしていなく(虚構)ても民族というのはある。(今の各国は民族自立という建前だから逆算的に民族というものは家族より普遍的だよ、という議論すら可能)

それから100年ほどで日本人の構成員は全員変わるから民族は虚構なりってギャグはあまり笑えなかった。だったら人間の細胞が20年ほどで全部入れ替わったら小坂井は小坂井じゃなくなるの?本当にそんな風に思っているのなら(哲学やっている人たちにはそういう人も実際いるからね)、民族の虚構性より「自己」の虚構性について語ったほうが早いしもっと本質的だ。しかしその攻め方だと世界自体が虚構だと証明できるから、あまり簡単に使わないほうがいい。だってそれを極限まで持っていけば、細胞が半分変わってしまったので10年前のシリアルキラーAはもう罪を問えません、という話になっちゃうし。

私は民族なんて便意的なものであって民族の構成員なんて変わり続けているし確固としたものではないという、小坂井の意見に賛成のほうなんだけど、言ってるのが古臭い上に矛盾しているので指摘した。

それとマイノリティを受け入れる開かれた共同体とか言ってるけど、実はこれも小坂井本人の言ってることとは矛盾している。一人の人がいろんなカテゴリーに属するって言うのが民族の虚構を打ち破るために提出した小坂井の論理で、だったら確率的にマイノリティのほとんども別々のなんだかのマジョリティに属しているわけ。だったら結局、自分がマイノリティではないフェーズでがんばればいいので、はい、おしまいじゃん。

でも、実は一人の人間がいろんなカテゴリーに属しているといってもやはりたった一つか二つのカテゴリーが実際の政治問題として重要。だからその少数のカテゴリーにウェイトをおいて民族とか国籍とかを強調する。なにが悪いのかよくわからない。あとで説明するけど、結局小坂井的な哲学は、差別OKという結論に行く。ダレダレ(本書参考)が全体主義に行き着くというのよりも、小坂井が差別主義に行き着くのが早そうだ。

だから別に私は、民族が虚構ではない、といっているわけではない。むしろ、民族なんてものは競争力の高い共同体を作り上げるためにNation-Stateという枠組みが、それこそ絶対王政や重商主義などみたいな形ででてきて、ナポレオンあたりがそれに郷土愛などをうまくあわせて平等な国民兵による総動員体制なんてもんでヨーロッパを席巻してしまったから民族国家論が広まっただけだという考え方をもっている。それから帝国主義が行き詰ったので、対案としての民族自決ってのもある。でも、やはり人間というものは愛するべきものが必要だし、心地いいんだよね、あれって。まだ世界地図とか歴史とかよく知らなくてもよかったときは自分の故郷だけ漠然と愛していればよかった。

だけどもう私たちはドイツワールドカップを目前にしているわけで面白いじゃん、やっぱ。韓国代表と日本代表がサッカーするのオもろいじゃん。ただ私が言いたいのは、近代的なNation-Stateができたとき、完璧な虚構ではなくなにかの同一性を持った人びとをまず束ねて、そこから逆算して民族の歴史を作ったり、民族の特性を作ったり、そこからできた子孫たちを同一民族と思わせているということ。そういう攻め方のほうがずっとファンシーだし説得力もあるよ。無論、小坂井は「内部=外部」、「異邦人」とかのタームを使いたがっているのだからファンシーだからといって私の提案に乗るわけがないのだが…

だから小坂井は攻め方を間違えているわけ。だって民族って虚構です、だから民族差別なんて根拠なしです、だけど人間は虚構無しでは生きれないんです、って正直何が言いたいのかわからない。人間が虚構無しで生きていけないのならその虚構に基づく差別上等なはず。だって人類が虚構なしでは存在できないのなら、人類の生存がなによりも優先されるという前提において差別は許されるわけだよね?

別に虚構上等ならヨーロッパ人が差別的な分類をしたところで結構なのじゃないのか?その虚構とあの虚構の間に溝があるのかないのかはっきりして欲しい。虚構Aが社会一般に受け入れられていて、虚構Bが受け入れられない場合それはなぜなの?ということがまったく説明されていない。

人種や民族なんて虚構であるなんて実はみんな言われなくても知っていることなんだよね。ある程度民族なんて虚構である。だからこそガキのころから我が民族はどうのこうのと教え込むわけ。だから正直、小坂井の論証だけではまったく意味ない。だけど本人はみんなが知らないことを言っているつもりになっている。小坂井のいう程度の虚構なら指摘してもしなくてもどうでもいいや。

言い直すと、結局小坂井は「人種を分別するのは虚構の基準に基づいているから人種は有効な概念ではない」といっているわけ、でも民族においては「人間は虚構無しでは生きていけないから民族という概念が現実的な力を持ち続けても仕方がない、妥協しよう」という。だったら人種の概念をそこまで否定した理由はなに?最初から、「人種というのは虚構に基づいた嘘だけど、まぁ、仕方ないや」で終わっても別に悪くないと思われる。

でも、実は「人種=虚構=ダメ」はこの本のほんの最初のほうでちょっとでてくる話で、実はこれを省いても論理は成り立つ。結局、「見えないコントロール」(ソフトなコントロール)をしろという話に無難にまとめる。その本質的な論理展開はあまり問題のない、甲論乙駁的社会学ワールドの議論としてはそれなりに有効だと思われる。

正直、数年前に読んだ後にすぐ捨ててしまった本をレビューするつもりは無かったのだが、偶然、アマゾンで6人のレビューアが6人とも5つ星をあげているのに驚いて、ちょっと子供っぽい批判口調になってみたまでである。私がレビューアなら星三つ半くらいだろう。


Further Reading:
なし
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2006年01月13日

前田建設ファンタジー営業部:ブルーオーシャン的CSRと見るべきか、あるいは日本ゼネコンの凋落と見るべきか

前田建設ファンタジー営業部」というのがこの本の題名である。著者でも出版元でもない、タイトルが「前田建設ファンタジー営業部」なのだ。そしてその奇抜な題名に負けないほど、この本は奇抜な内容を持っている。実在の大手ゼネコンでベイブリッジや福岡ドーム、アクアラインなどを手がけた前田建設は、2003年2月にファンタジー営業部なるものを社内に新設する。その目的は、談合や賄賂、バブル後の多額の負債とばら撒き型の公共事業に依存しているなどといった悪印象を和らげるためらしい。そのためには、他のゼネコンが進出しておらず、「奇跡手つかずのパイ」である分野に進出することと、それによって人びとに前田建設は他のゼネコンとは一味違うというイメージを植えることが必要となり、フィクションの世界の物件を「技術力」と想像力でできる限り現実に近い見積もりをするという一大プロジェクトが始まった。

初めてのプロジェクトは「マジンガーZの格納庫」の見積もり。物語はプロジェクトX的とマンガ・アニメ的世界観を意識した「個性的」二頭身キャラクターのノリで進むので読むのには困らない。要所要所に登場する専門用語には注釈があるし、ちゃんと普通の人にも読めるようになっている。

彼らはまずビデオで「格納庫」の全体像を知り、アニメの設定資料などと辻褄を合わせて、格納庫のある光子力研究所の所在地と地質を調べたり、材料や工期なども、各分野の専門家に問い合わせたり、専門的な知識をたくさん盛り込んだ、まるで本物のプロジェクトの見積もりを出すかのような真摯さを垣間見せる。最終的にはちゃんと受注して、見積もり通りの施工のできる結果を出せたと野次馬である私には思える(土木の話などちんぷんかんぷんなので確信はできない)。結局、アニメの設定資料などを見る限り、マジンガーZの基地はマジンガーZの本体とバリアーを除いて現代の技術で作れそうだという。

フィクション的なプロジェクトを立ち上げて、社会との関係を模索するという思考において、HONDAのASIMOやSONYのAIBOより遅れをとったけれど、前田建設は土木と言う得意分野を誰も想像したことも無い、フィクション内物件の見積もりとつなげたブルオーシャン的発想を成し遂げたのである。これは、社会との関係を模索すると言う意味ではきわめて良好なCSRというべきであり、企業の事業を説明すると言う面において優れたIRレポートであり、また宣伝と言う面では驚くべき新感覚といえる。正直、MBAのケーススタディに入れるべきだと思われる。

ただ、バブル期には月面ホテルの見積もりを出していた日本のゼネコンが、今では形無きアニメにその夢を託すしかないという事実に少しわびしいキモチになってくるのは私がペシミストだからなのだろうか?


参考文献
1.「第六大陸」:この本を読まずにして月開発を夢見るな!と言い切らせていただきます。第六の大陸である月面を開発する本格土木SF。
2.「前田建設ファンタジー営業部」のホームページ:「マジンガーZ」編およびに続編である「銀河鉄道999」、「グランツリースモ4」の話も読めます。
3.「空想科学読本」:アニメ・マンガの世界のキャラクターたちがいかに物理的に不可能なアクションをしているかについての話をくだくだと並べ立てる本。「前田建設ファンタジー営業部」はこのシリーズのアンチテーゼのようなものだろう。
4.「MMRマガジンミステリー調査班」:会社のプロジェクトとしてわけのわからん話に首を突っ込むチームの話(フィクション)なので、ノリとしてはファンタジー営業部と結構似ている。
posted by 白紙状態 at 16:54| ソウル 🌁| Comment(4) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月09日

ハリウッド・サーティフィケイト:スピンオフしてしまだだ。

島田荘司の忠実な読者でも、レオナ・マツザキというキャラが好きという人は少ないと思われる。最初は松崎レオナとして登場し、後に世界的なハリウッド女優になる彼女は、本書において大きな変化を迎える。それまではあくまでもシリーズの名探偵である御手洗潔に助けを求め、御手洗潔の天才性を際立たせる道具に過ぎなかった彼女は、本書において、自分の才覚を最大限に発揮し、ハードボイルド探偵として生まれ変わったのだ。だけど、やはり私はレオナ・マツザキという人物が好きではない。その性格が好きではない、その役割が好きではない、その外見はどうでもいい。彼女の性格が、役割が、スペックが、すべてが安っぽいし、本書及び最近の御手洗潔のシリーズは安っぽすぎるのだ。

2001年の作家デビュー20周年を迎えた島田は、「ロシア幽霊軍艦事件」と「ハリウッド・サーティフィケイト」の二冊を上梓する。その前年の「魔神の遊戯 」とその次の年の「ネジ式ザゼツキー」あたりはいずれも御手洗シリーズ(とその外伝)で、似たようなネタを使いまわしている。四つとも「脳」と「認識」の関係をめぐった錯誤のものがたりだし、御手洗の登場は少なく、作者の脳医学のお勉強の成果と作劇の一定のパターン(島田荘司の本格ミステリー論)を繰り返している。これが可能で、これが許されるということは作家として上がりの段階であるということかもしれない。

島田荘司作品の探偵役は四人ほどいる。一人目は御手洗潔、二人目は吉敷、三人目は隈XXX(なんだっけ?)、で、四人目がこのレオナ・マツザキ。「「ハリウッド・サーティフィケイト」と来るべき続編において彼女はクールで、セクシーで、時々バイオレントなハードボイルドビューティなディテクティブを演じることになる。だけどその変化が安っぽい。いくら御手洗の動かし方がわからなくて悩んでたとしてもレオナ・マツザキをこんな風に「変態」で、「過激」で、「暴力的」なやつにしたてあげて、続編のにおいをプンプンさせて、御手洗・吉敷以外の探偵役を作り上げたいのかといいたい。「ケルト」、「ES細胞」、「子宮」、「ハリウッド」、「ポルノ」、「快楽殺人者」などといたトレンディでセンセーショナルなタームをオーヴァードーズしているような作品なんて要らない。といってはみるものの、単発のピースとしては面白いので買うことになる。これは面白い。極めて面白い。御手洗潔が説明役としてしかでないのに面白い。嫌いだけど一定の面白さは認める。だけどどこにもいけない堂々巡りの作品群のおもしろさなんて島田荘司は、「占星術殺人事件」や「斜め屋敷の犯罪」などで見せて奇抜さをなくしてしまった。「ネジ式ザゼツキー」なんかもほかの作家が書いたのなら傑作的な出来だとは思うけど、いつもの島田印の脳作品という面がどうもこびりついて離れない。

で、こんな「できのいい凡作」しか作れない島田のことを「これはいま最新の話題で盛り上げているだけで、20年後に評価されるのか?」などという人もいるけど、残念ながら島田はもう名を残して「あがり」の作家なので、こんな「できのいい凡作」を続けてポジショニングを続けていくのだろう。残念ながら。

私的には90年代の迷走よりも開き直った今の島田がいいと思っている。でも、6歳の御手洗とか20歳の御手洗@コロンビアの助教授とかを見たくて島田の本を読んでいるんじゃないって気が付いてほしい。(つーか、実生活で悪魔みたいに頭がいい人たちがどんだけふつうに暮らしているかしっている私としては、島田作品みたいに「天才であることがなにか特別であるかのような」いいかたってあまり興味ないんだよね。べつに御手洗が占星術師でもこまらないわけで…ただ脳科学ネタがやりたいために、実は御手洗って科学も音楽もできるチョー天才でーす、とかいわれてもしらけるだけだし。


参考文献:この文章に登場する島田荘司作品全部
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バトル・ロワイヤル:実は私…

文芸の豊穣なる歴史には無数の「処女作が最高傑作」だった作家がいるし、その中には「処女作だけ出版して、沈黙した作家なので処女作が最高傑作になるしかない作家」というのもある。無論、そういう「処女作に続く作品を出さなかった作家」のうちの多くは質の低さが理由で続編出版を拒否されたり、処女作の出版後に死去したりする不可抗力型が多いのだが、「バトル・ロワイヤル」の高見広春は処女作のヒットの後、沈黙した形になった一発屋である。一応、続編である「バトル・ロワイアル II 鎮魂歌」にもかかわってはいるが、おおよそ高見の作品ではないとの評判である(形式を則って、精神を無視する態になっている)

私が「バトル・ロワイヤル」を手に取ったのは、映画のクランクインの前後だったと思う。少なくとも公開前後の例の国会議員を巻き添えにした大騒動の結構前だったことは確かで、例の騒動をネットで見ながら「バトル・ロワイヤル」をつまみ読みしていたのを覚えている。小説のほうはあまり好きではなかったりする。さて、「バトル・ロワイヤル」の話をしよう。

全体主義独裁政権下の日本。小説では、毎年2000人の犠牲者が出る殺し合いのフェスティバル。唯一の徴兵制。映画では増加する少年犯罪におびえて大人たちが作った戒めの狂騒。これ、リアリティはまったくなし。全体主義的社会において、刑罰を重くしたら非行青少年が学校で犯罪犯せるはずないのに、なぜかそういう当たり前のことが完璧に無視されている。全体主義社会において、反秩序的分子はその存在自体が秩序を重んじる全体主義に反するのでアンダーグラウンドにもぐるしかない。逆にこういう反秩序・反制度的分子が大量に発生し体制側がそれをコントロールできない場合、政権はいつ滅んでもおかしくはない。

全体主義社会においての治安維持問題は、ロックを許す、許さないの問題ではないのだ。「プログラム」を続けられるような全体主義的政権下で非行青少年が学校の先生を攻撃する事件が表面化するはずがない。小説版にもまったく全体主義政権下とは思えない思考(制度が思考を規定するという仮説に基づいている)が存在するが、こういうリアリティなし(それが悪いというわけではない)の作品は往々にして、なにか中心的な主題・題材にそのリアリティの無さの理由がある。繰り返すなら、主題・題材を描くためにリアリティを削るしかなかった場合が結構ある、ということだ。

本書冒頭の、「3年B組金八先生」、スプリングスティーン(ボス)、佐野元春、ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」からの引用は、これが極めて青春原理主義の作品であることを教えてくれる(わからなかったら金八先生を見なさい)。青春なる時間における自意識と抗いの煌々さをいびつなほど極大化して肯定して賛美して描き倒す方法論として、戯画化された全体主義日本社会という設定は極めて正しい。結局、ありふれたたとえ方をするならば圧力があってこそダイアモンドが出来上がるので、主人公たちの「青春の抗い」を見出すためには極めて強い圧力を入れる必要がある。(ここら辺がセカイ系のマンガ・ライトノベルが往々にして「ぼくたち」と「セカイの危機」をダイレクトにつなぐ理由だと思われる)逆に言うと、「青春の自意識と抗い」なる概念は今日、こういった戯画化されることでしか賛美できないことになるのかもしれない。

作者のインタビューなどを読んだことは無いけどおそらく、「青春モノが書きたい」=>「人が死ぬのが劇的で簡単に物語を作れる」=>「それならチュウボウを大量虐殺する!」=>「それじゃチュウボウの殺し合いの物語を作ろう」=>「それが可能な社会はやはり全体主義的社会だろう」=>「それじゃ某北の国のパロディをしてみよう」のような考えがあったと思われる。無論、「金八先生のブラックパロディ」から始まった可能性も否定できない。

だから単に同じキャラクターを使って、同じ世界をもっと掘り下げるという面において、IIは正しいのかもしれないけど、やはりクオリティの低さと題材・主題の欠如を補えるものではなかった。

本書はとにかく「学園モノの定番キャラクター」を示すことに終始している。たとえば運動のうまいさわやか少年。美人で冷たい敵役。オタク。謎の転校生。典型的なヒロイン役。などなど。こういった変人・奇人・おどおどするやさしい女子すらも、個性となる。

「バトル・ロワイヤル」から影響を受けてはいないだろうけど、この系譜に舞城王太郎(戯画化された世界の中で過激に家族愛と青春賛歌)や「魔法先生ネギま!」(クラスの全員に個性(?)をあたえバトル・ロワイヤル状態)があったりする。

で、なんで映画のほうは好きなのかというと映画のヒロインの前田ちゃんがかわいいから…という理由に過ぎない。あのころは私も若かった。ドラゴン・アッシュのこの映画のエンディングの曲が好きで、時々、コピーしたりもした。だから最後の気恥ずかしいまでの逃避行が気に入ってしまった。作者は、「バトル・ロワイヤル」のコミックスも終わったことだし、今度は開き直ってファンタジーとかミステリーを書いてみたらどうだろうか?とおもってみる。

それとこの本、なぜかうちの大学の図書館でも人気で、時々、予約図書の棚に並んでいたりした。(無論、日本語版原書である)
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2005年12月21日

世界を不幸にしたグローバリズムの正体:それ、なんていうスティグリッツ?

世界を不幸にしたグローバリズムの正体」長らく積読状態だった本。同時代的なイシューに関するノンフィクションのベストセラーとなると、基本的なスジや主張は新聞の書評などで全部知ることできるので、タイミングを逃すとまた別のイシューに関する本が出るので積まれたままになってしまう。大学に入って初めての夏休み、福岡の実家に帰ってたときに買ったまま、数日前まで部屋の隅でホコリを被っていた。すべてはその夏のワールドカップが悪いのであって、金銭のありがたみを知らない私が悪いのではない。他山の石もいいが、他人のセイも悪くない。そしてこの「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」という本も、基本的には他人のセイも悪くない、という支点を以て同時代世界を分析している。本書の著者であるノーベル経済学賞受賞者であるジョセフ・スティグリッツのそういった姿勢をこの文章の模範としてみたい。

本書の原題は、「Globalization and Its Discontents」(グローバリゼーションと不満分子たち)で、日本語の題名の「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」とは若干距離がある。まず序章と最後の章で明記されているように、スティグリッツは基本的にグローバリゼーションに賛成している。彼はそれが数億人を幸せにして、百万人を不幸にしたとも言っている。スティグリッツの主張しているのは、「グローバリゼーションはもう引き返せないほど進行している」ので、ガバナンスの変革すなわち「もっと当事者の協力を得て」、「一律的ではない援助」をし、それを機能させることが必要となる。それと翻訳の人は、「グローバリゼーション」という無機的なプロセスと「グローバリズム」という意図的な思想の形をとり間違えているのだ。両者はほとんど同じ意味だし、厳密な区別などあってないものだが、スティグリッツのように「プロセスとしては止められないし、必要ではある。しかしその思想と運用形態は修正すべし」という論者の考え方を述べるとき、それはやはり区別されたほうがいいのだろう。

この本を読みながら初めて気づいたのが二つあった。この本はいわゆる「ワシントン・コンセンサス」を推し進める二つの機関(世界銀行とIMF)のうち、IMFだけをその批判の対象としていること。そしてこの本はよく内部告発とされているが、スティグリッツは「世界銀行」のほうに勤めていたことである。別にそれが悪いとは言わないし、世界銀行で勤めたことがなくともノーベル賞をもらうほどの経済学者が自分のIMF分析を発表することになんら問題があるとは思わない。しかしながら「ワシントン・コンセンサス」の悪名の高さは、それが正しいか間違っているかにかかわらず、IMFと世界銀行の両方に属するものであり、スティグリッツはそれについてはできるだけ語らないようにしている。たしかに彼がIMFだけが悪く世界銀行は悪くないと判断したのかもしれないし、二つの機関を批判することは論点をあいまいにすることに成ったのかもしれない。だけどやはり彼はその旨をちゃんと記しておくべきだったと私は考えている。それとこれってスティグリッツの「非対称の経済学」に拠るところが結構あるから、自説をうまく売るための本でもあると思われる。

それとスティグリッツは中国の独自性なるものを賛美し、それらが極めて正しいという風に書いているが、出版から4年ほどたった今、中国の純粋に経済的な理由からきたテロは増え続ける一方である。逆にIMF勧告によって透明性と構造改革をある程度なした韓国ではIMF自体の評判は悪いが、その影響である透明性と構造改革は(IMFの影響であることは無視されるが)評判がよく、超法規的な権力を持つ財閥中心の従来の韓国的経営への復帰はごく一部の非経済学的言説を除いて存在しない。韓国では97年から98年にかけての金融危機自体を「IMF」と呼ぶほどIMFと金融危機は離せない関連性を持っている。しかしながらIMF以前の体制は、95年の全・盧の元大統領のクーデタと不正蓄財での逮捕・実刑判決によってもはや持続不可能宣告を受けたのだった。べつにIMF的なことが正しいというつもりもないし、スティグリッツがこんなことを言ったらおかしいと思うけど、一応、4年後の視点からコメントしてみた。


Further Reading
1.「スティグリッツ入門経済学」:グローバリゼーションを批判する前に、なぜ自由貿易が効率を最大化するかを知らなければ、なぜスティグリッツがグローバリゼーションを全否定しないのかを理解できないので、基礎テキストとして文章の簡単なこんな本とかを読んでみてください。
2.「非対称情報の経済学」:でもって、スティグリッツさんが普段どんな考えをしていて、なぜIMF&ワシントン・コンセンサスが槍玉に挙げられたかを考えて見なさい。
3.「グローバリゼーション再考」:でも、グローバリゼーション最高と読まないでください。


追記:こちらの書評によると、スティグリッツの新作Fair Trade for All: How Trade Can Promote Developmentは、WTO批判っぽいらしいです。
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2005年12月17日

メシアの処方箋:彼は人類の成長を信じる。けど、彼自身はあまり成長しなかった

SF作家機本伸司の第二作。ヒマラヤで発見された方舟の中にあった、蓮華模様の木簡。それは五千年前の文明が残した人間とほとんど同じDNAを持つ「救世主」のゲノムだった、というストーリ。だから題名が「メシアの処方箋」である。主人公は、そのゲノム地図を元にした子供を作り上げ、救世主を生み出そうというプロジェクトに巻き込まれることになる。

プロジェクトといっても大規模なやつではなく、ロータスという奇人と北川という倫理観のまったくないバイオエンジニアーと逆にまじめすぎる上杉と代理母くらいしかいない小さなグループで、そういった「なにかに向かって突き進む若者の集団」をめぐる物語になる。最後は前作「神様のパズル」と似たように、その「救世主」をめぐる妄想に実現性のありそうなオチをつけるのだが、正直、あまり面白くなかった。

救世主と救いをめぐる物語のくせに人物の深みがあまりない。そういう場合はキャラを立たせて萌えに逃げるとか、倫理などの面は無視するかにしたらいい。しかし機本はそういう器用なことをしなかった。前作ではちょっとかわいいイラストを表紙に載せて、萌え系のキャラのパターンを踏襲したらそういうことができると思っていたらしいが、今度はそうこともなかった。前半は女の影まったくなし、後半のヒロインは風俗で勤めていた経験ありだった。

正直、機本にはキャラをどうこうできなかったのかもしれない。でも、最低限の成長はあったと思われる。処女作の「神様のパズル」のクライマックスでは、一応最低限の説明はあったものの専門的で非日常的な風景・思考が出てきて、素人としてはリズムが悪くなって読みにくかった。しかし今度はそういうことはあまりなく、ちゃんと普通の読者にもわかるような篭城の攻防戦があった。なんとなくベルナール・ウェルベルの「」を思い出す。

まだ3作目の「僕たちの終末」を読んでないけど、機本は、われわれの現在の世界に近い世界で、一見実現不可能に見える旧来のSF的コンセプト(ガゼットではない)を、なんとか力技で辻褄(ディテール)をあわせながら成り立たせる思考実験をそのまま小説風にしているようだ。無論、「神様のパズル」みたいな理論物理学がテーマならべつにいいのだけれど、今度みたいにちゃんと人間を作りこむ必要がある作品ではむしろ弱点になりえるかもしれない。救いというものは、宇宙の作り方(「神様のパズル」の題材)と違って、もっと感情的で、切実で、文学的(な深みが必要な)題材なのだから。


ひとつだけ気になったことがある。こういう「救ってくれよ」と他人に強くすがる(情けなさMAX!の)登場人物は、エヴァンゲリオンのシンジから始まったのかな?ロータスの演説を読みながらなんとなくシンジのことを思い出した。著者の名前がキモト・シンジだからかもしれないが…。


Further Reading:
1.「神様のパズル」:これは読むべし。キャラクターが安っぽくても読むべし。SF読みなら読むべし。
2.「空の思想史−原始仏教から日本近代へ」:名前のとおり、「空」という思想の来歴を明かす本
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2005年12月10日

インド植民地官僚:インドとか、植民地とか、官僚とかの話

多くの植民地インド(1858年から1947年まで)を扱った本では、必ずといってもいいほど、英国政府(インド省および植民地官僚組織)のエリート官僚たちによる少数支配についてある程度いうことになる。たとえば、名著「創られた伝統」(Eric Hobsbawm著・編)の第四章、Bernard S. Cohnによって書かれたRepresenting Authority in Victorian India(ヴィクトリア朝インドにおける権威の表象)という文章の出だしもまた、その典型(テンプレート)に沿ったものになる。

「19世紀中盤、インド植民地社会の文化的特徴は、一言で言えば、少数の外来集団(イギリス人)と彼らの効率的な統制下に置かれた2.5億人のインド人の間のくっきりとした乖離である」そしてCohnは、その支配の文化・儀礼的な面の歴史をいろんな文献を参照しながら分析し、いかに多くの伝統が作られて、インド人の無意識レベルで支配を受け入れさせたのか、という問題にたいして、文化(この場合はシステム全般の意味)的次元において特定の理念と仮定を正当化することによって権威を打ち立てていったのか説明する。たとえばデリーで行われた帝国会議では、1200人のヨーロッパ人と8万4千人のインド人が参加した。逆にいうならば1200人のエリートイギリス人を以ってすればインドのリーダーたちとその配下の8万4千人につりあうと思うことができたということだ。ちなみに本書「インド植民地官僚」で扱うインド高級文官なる官僚組織は1000人ほどだったという。

そして本書は、その「少数で特異な一外来集団がいかにして2.5億人を統制したのか」という問題を文化的な側面ではなく、その文化を作った超人(エリートたち)の人間としての姿を統計資料などを用いながら丹念に描く。これは「女王陛下の雇われCxOたち」ともいえる「官僚・エリートたち」がいかなる人間であり、彼らはいかに大植民地を統べる権力を与えられたかという問題に答える。ある意味、成功した組織の分析ではあるが、しかし前回評した、「ホンダ常勝のSED会議」とは違い、具体的な仕事運びや数字的な分析がなされている面において大きく違う。(ちなみに本書の著者の名前は本田毅彦である)

前記の、Cohnの論文に戻ると、「自ずからの戦争能力を放棄するかわりに藩国の国境とその継承権を東インド会社が保障」する契約が交わされた。それは宇宙論的な論理をもつムガル帝国の支配が、極めて実用的なイギリスの思想に置き換わるための文化的な装置である。もちろんイギリス人たちは形式において、結構インド・ムガル的な要素を取り入れたのも事実である。同時に、イギリス人も実用的ではない文化儀礼を作り出したのはたしかだ。たとえば、インド人はヨーロッパ風の服を着ていない場合、イギリス人の部屋では靴をはいてはいけない条例などもあった。だけどやはりムガル・インドと植民地インドの間には大きな差があり、その差を象徴するのが植民地インドの官僚たちである。

インド植民地官僚」はまず、インドと植民地と官僚の関係について述べる。インド統治を本国から操作するインド省は、議会の直轄下におかれインド担当大臣は大蔵大臣、外務大臣などと同程度の扱いをうけたという。インドの現地では、「インド副王兼総督」の下に文武両部門の官僚たちがいて、そのうちの「インド高等文官(Indian Civil Servant)」たちが本書の扱う対象となる。常に1000人前後の少数のエリートたちで構成されたインド高等文官は、その権威と難関の審査・試験を通過したことから少数精鋭のエリート集団として知られることになる。

最近読んだ、19世紀序盤の話であるボライソーシリーズの19巻「最後の勝利者」では、東インド会社出身の若者がかなり荒くれもので海軍にふさわしくないことをやらかす描写があるが、女王の王冠に輝く宝石になった後のインドは息苦しい本国を離れ、自分の力量を最大に発揮できる憧れの場所になった。ちなみにそういった高貴で異国的で自由なインドの様相を描き当代随一の作家にのし上がったのがジャングルブックの原作者キプリングである。そして異国で力量を発揮したかったのは、「教育を受けた中産階級」(Educated Middle Class)という弁護士、聖職者、内科医、教授などの子息だった。高等文官は、その選抜試験を通る必要があった。ある意味、それは身分制度にこだわらない、知的能力に根拠をおく近代的な官僚制度の始まりであるといえる。その理念は、古典的な知識をもつジェネラリストの選抜で、時には、「古典学」の素養をびっしりと仕込まれたオックスブリッジ(Oxford+Cambridge)出身者を優待するために試験制度を変え、インドでは現地出身の弁護士にやられる裁判官などといったケースを量産することになった。ちなみにその高等文官の中にはインド人も含まれている。

著者はインド高等文官採用試験の合格者たちを統計的に分析し、彼らの出身背景や彼らの出身地域について執拗に語る。ちなみに49%の合格者がオックスフォードで、30%がケンブリッジ出身だったそうだ。それから高等文官試験専門の家庭教師−詰め込み屋−なるものの存在も注目されている。採用試験合格者たちはイギリス国内の大学で1〜2年間の研修を受けることが義務とされており、そのなかでもオックスフォードのベイリオル・カレッジが人気だった。ベイリオル「カレッジの学長であった古典学者ベンジャミン・ジョウェットが、オックスフォードでの古典学教育と、帝国の支配を委ねられた典型的なエリート集団であるインド高等文官制度とを結びつけることについて、きわめて熱心であったことが、その誘引だった」とのこと。ベイリオル・カレッジなら若き日のピーター・ウィムジー(推理小説の中の探偵)のすごした場所だった。感慨深いものである。このことからわれわれは高等文官制度が「試験」と「知性」への信仰に基づくものだと知ることができる。そのほかには彼らの恋愛模様や「ジェントルマン資本主義」の話もある。ちなみに恋愛のパートでは、それこそ古典的な一目惚れや幼馴染との結婚もあったりして、そっち系(幼馴染萌え)の人たちからは貴重がられる文献の紹介もある。

ちなみに天下りと昇進スピードについての論考もあり、官僚組織というものはある意味天下りを前提としたものであるということがわかる。高等文官制度においては、あるところまでは年功序列でいくが、それ以降は能力主義らしい。それからインド植民地官僚の下落の時代について語られる。インド自治運動が活発になってくるにつれ、イギリス本国から派遣された官僚の地位は低くなるばかりだった。そこで彼らがどう対処したか、リーダシップについて考える必要のあるかたにはインサイトを与えてくれるいいチャンスになるかもしれない内容だと思う。大西洋航路発見後のベネチアなどがそうであるように、個人がいくらがんばってもしょうがない場合が歴史上にはいくつもあった。そのときはうまく逃げることが大事である。大局観を持たない奮闘はただのリソースの無駄使いだといわれても仕方がないのだから。戦略的に撤退することこそが最善である場合、退却戦をどう繰り広げるかについての論考は少ない。そして本書の二部はそんな退却戦のやりかたを教えてくれる。


Further Reading
1.創られた伝統:効率的な支配のためには伝統すら作り出せるのが人間なのですね。
2.学寮祭の夜:オックスフォードが舞台の名作ミステリー、当時のリベラル風の貴族や教育された中産階級の息遣いをかんじることができます。
3.大英帝国の大事典作り:同じ著者による同じほどの傑作、のはず…11月に出たのでまだ読んでいません。
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2005年12月04日

ホンダ常勝のSED会議:どうしようもないほどジャーナリスティックで

(昔、べつのところ書いたやつを転載します…)


本書「ホンダ常勝のSED会議」の内容は、まず
1.アメホン(北米ホンダ)はえらい!、そして
2.アメホンの役員はエライ!、ホンダもえらい!、やがて
3.ACURA最高!、シビック最高!、ホンダ・インディー・チームエライ!
4.ホンダはこんなアゼンダを掲げているんだ!だからエライ!になる。


略歴によると、著者、大塚秀樹はいわゆるジャーナリストらしい。

本書のキーワードは、まずタイトルにもなっている、SED,すなわちS(販売)E(生産)D(開発)の三部門から集まった実務の人たちが激論を戦わせて新車を作っていくという会議だ。それから日本本社は大株主にすぎない、アメホンはそのコントロール下に入っているわけではなく、ある程度配当を済ませばOKという関係だという、「本社大株主論」、下取り価格維持のために「レンタカー会社にホンダの車は売りません」、トップダウン方式ではない、社論に基づきExecutivesが動く「トップが部下に踊らされる企業文化」、
現場、現物、現実の三つの現を重視する「三現主義」、ある工場の人員が1万人を超えると、ホンダ文化の維持が難しくなる経験則、「社会貢献」、「CSI(顧客満足度)重視」経営
などがある。


日本のほとんどのビジネス書に共通する話だが、本書も、ジャーナリスティックなくだらないセンセーショナルな書き方で、ただ登場人物(無論、実在のリーマン)をほめることに始終する。そしてそのほめる理由はたしかに理にかなっているかのようにみえる。だけど、ホンダという成功した会社で、その成功をもたらした人たちの戦略を建前のお題だけ採ってくれば、それはたしかに理にかなっているかのように見える。しかしそれは結果論に過ぎない。すべては偶然の技だったのかもしれないし、まったく関係のない部分での成果だったかもしれない。だけど本書は、まったくといっていいほどそういった面に目を向けない。

著者は、「ホンダは成功している。ホンダの社員はXXが大事だったという。だからホンダの成功はXXのおかげである」としか言ってないのだ。XXと成功には本当に緊密な関係性があるのか、そしていかにしてXXは成し遂げられたのかについての描写はないといってもいい。SED会議で殴りあったなどというのは、正直どうでもいい。(著者の名誉のために一言付け加えさせてもらうと、べつに殴り合いがメインなのではない)そんなのはドラマ化するとき必要なのに過ぎない。

世の中の企業はみな馬鹿ではないのだから、みんなあれこれ「理にかなった戦略」を導入する。それこそコンサルタントに数億円を払ってBPRだのCSRだのを繰り返す。だけど、各企業の差は縮まらず勝ち組と負け組みがでる。本当に読むに値するビジネス書とは、そこまで踏み込む必要がある。

たとえば「勝ち組ホンダの有能なホープだったイリマジリがセガに移ったが、なぜ彼はセガが負け組みになるのを防げなかったのか」というのがジャーナリスティックではない、もっとリアルな問題だろう。そして試行錯誤も述べたほうがいい。たとえば、自伝「jack」においてジャック・ウェルチ元GE会長は、自分の成功も失敗もそのプロセス面から分析し、なぜ成功したのかをはっきりと述べることができた。そういった自己客観視が日本の企業とビジネス書籍には足らないのではないかと私は最近思うようになった。

そして本書のスタイルは、たぶんわかりやすさを優先させ、そしておそらく先行するビジネス書に倣ったものだと思われるが、各登場人物の心理と会話をまるで「見てきたかのように」述べる。実際は、各人のインタヴューに基づいたと思うし、著者のそういった取材努力が足りないとおもうわけでもない。べつに韓国やアメリカやヨーロッパでマスタピースが量産されているわけでもない(量産されないからマスタピースだ)。

本書を含む日本のたいていのビジネス書籍は、思い込みや流行や決め付けと物語だけが存在し、本当に分析的か客観的か応用可能な書籍は見当たらない。無論、いわゆるフィールドブックだけが正しいといっているわけではない。支離滅裂になってきたが、私が言いたいのは、会話シーンと心境描写で一冊をでっちあげるのではなく、そして勝ち組企業の役員たちを「英雄化・善人化」するのではなく、真摯にビジネスという「生きた馬の目を抜く」フィールドを分析し、生き延びる方法を指南してほしいということだ。

私の最近のお勧めは「日本型「成果主義」の可能性」や、「スティーブ・ジョブズ-偶像復活」などがある。

べつに私はホンダが嫌いなわけではない。むしろ、好きといっていいほどだ。そして最後に付け加えておくと、本書は、ホンダの極端な北米重視は、諸刃の刀である、という指摘(162ページ)など、いちおう提灯持ちではないことを示そうとしている。


Further Reading
1.スティーブ・ジョブズ-偶像復活:虚飾を取り払っても立派な人物は立派であることを実証。
2.ホンダ神話:おそらく最強のホンダ本
3.おもしろいだけじゃだめなんだ。評論家山形浩生の文章、なんとなく私と同じことを言いたかってるっぽいし、短いので読んでみてください。
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2005年12月03日

たんぽぽ娘。:なんとなく私は彼女に恋をした

たんぽぽ娘(原題:The Dandelion Girl)。ロバート・F・ヤング作。リリカルなタイムトラベル系のSFの名を上げる場合(こんなこと人生において一度か二度くらいしかないと思うのだが…)、そのトップ10に入らなければおかしい作品である。逆に、これをトップ10にあげないのはモグリのSFファンである。本稿の題名に「。」をつけた理由をいうのは野暮だと思う。

日本では「海外ロマンチックSF傑作選2」や「アンソロジー 人間の情景 6」などのアンソロジーに収録されているらしい。しかしおそらく両方とも絶版だろう。ちなみにそういった絶版本の復刊交渉に励む復刊ドットコムでは、「海外ロマンチックSF傑作選」の復刊投票をやっている。100人の投票があり、もう出版社に要望のメールを出したらしいので、もうその必要がないかもしれないが、いちおうここでチェックできる。(SFマガジン2000年2月号に再録されている:出版社にバックナンバーがないのだけれど…)

ちなみにネット上には英語のやつもあるし、内容も短くそんなに難しい英語じゃないから、暇なときに読んでみるのもわるくない。

<ここからネタバレあり:でも、ネタを知ってたところでこの短編の真価か変わらないはず>


きわめてベタで甘いSFである。ある日、中年になった男は、例年なら妻と一緒にすごすはずの休みを一人で過ごすことになる妻が陪審員になったからである。そして山の中の、湖のほとりで過す休暇のひと時を楽しんでいたとき、ある少女と出会う。タンポポにもにたブロンドの純粋さを絵に描いたような少女と。彼女は自分が未来から来たといい、男はそれを冗談半分のうそだと思う。

彼女は「Day before yesterday I saw a rabbit, and yesterday a deer, and today, you.」(二日前、ウサギをみたわ。昨日は鹿、そして今日は、あなた)という。これは結構有名なせりふで、かなりあっちこっちで引用されているはずだ。

初秋の日差しが木の葉に反射して、森のあふれんまかりの柔らかな緑色の光で満たされるころ、男は少女と何回か出会いを重ねる。ある日、少女は去り、男は帰ってきた妻を迎える。そしてある日、偶然、その少女が自分の妻の昔(ややこしいな)の姿だと言うことに気づく。

タイムマシーンの故障で最後の一回しかタイムトラベルができなくなった少女は、もっと昔へと向かい、若き日の男と出会い、恋に落ちたのだ。

こんなストレートな話はもう誰も書くことがない。しかしこの短編が書かれたのは1961年のことで、まだSFはその可能性を模索していたころだ。だからストレートに感傷的(センチメンタル)な「たんぽぽ娘」なども(おそらく)前例のあまりない作品として向かいいれられたのだろう。だからこそ読んでもらいたい。この短編は可能性を模索している厨房(なぜかここだけネット用語)にこそ読んでもらいたい。そして萌え苦しんでもらいたい。


今ならこの素材でもっといろいろいじり倒した作品になるのだろう。そう、この物語はいろんな視点からみることができる。たとえば妻の視点。未来の自分が夫に出会うことを知っている彼女は、陪審員に選ばれて出かけるときになんとなく昔のことを思い出し笑みを浮かべる、なんていうのもいい。自分はなぜ「自分が夫と最初に出会ったとき@彼女の主観」に夫と一緒にいなかったのだろう?と悩んだりもしたのだろう。

これが今風の萌え系のライトノベルになるなら、最後まで真相を明かさないことはない。むしろ、最初から結婚を決意した「妻」が登場し、彼女が若き日の主人公に「好きです」状態で突撃するのが正しいのだろう。そして理由は後から説明される。未来の自分にほれた同年代の美少女がタイムトラベルで自分の元に来てラブラブ状態だなんて普通、普通。

「たんぽぽ娘」的設定&センスをいじくりまくって物事をごちゃごちゃにして、私をしてたんぽぽ色の服を着た美嶋玲香に萌え殺しにさせたのが例のアニメ「ラーゼフォン」だったような…。




今回からFurther Reading(関係のありそうな本)を何個かピックアップしていきたいな、と思います。

Further Reading
1.「ある日どこかで」:映画にもなっている「Somewhere in Time」の原作。切ない恋のタイムトラベル
2.「ラーゼフォン蒼穹幻想曲」:アニメ版より面白いゲーム版
3.「時の鳥籠」:「たんぽぽ娘」の設定を現代に置き換えたらこういうことになります。
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2005年11月26日

長靴をはいた犬:神の声を聞く神性探偵による救い

さて、山田正紀という小説家がいるということにしておこう。たとえば、その山田正紀が30年以上小説を書いてきて、それもSFとミステリーというファンダムの強いジャンルに取り組んできたとしよう。そして彼がその職人的な技と器用さで玄人受けのするベテラン作家として名を上げたとしよう。彼の作品のあとがきには、自分の作品がどうしても好きになれないこと、数多くのシリーズものを中断させてしまった自分への嫌悪、自分を嫌悪する自分への嫌悪、などが同じようなパターンで繰り返されていて、ある意味これすらも職人芸の領域に達してきたことを仮定しよう。山田正紀のデビューの年が、1974年、彼が来年の私と同い年だった24歳のときで、今の私と同じ年のころは、もうデビュー作の原稿に取り組んでいたとしよう。そのデビュー作のタイトルが「神狩り」だったとしよう。そして彼はずっと「神」を題材に小説を発表してきたとしよう。すべてを仮定しよう。何もかも霞のようにくっきりとした事実と仮定しよう。

でも、仮定したところで山田正紀が実在の作家で、上のようなプロフィールを持っていて、私が彼の作品をこの四、五年ほど読み込んできたことには違いがない。しかしながら私は、なぜか彼を語るとき、上のような奇妙な言い方を選びたくなった。なぜなのだろうか。ただ語尾を延ばしできるだけ長い文章を仕立て上げたかったのか、それともくだらない技巧のためなのだろうか、または彼が私にとって忌むべきものであるのだろうか、わからない。まったくといっていいほどわからない。ただ、彼の作品の持つ、ぼんやりとした不安感、漠然とした絶望感、薄汚い希望の予兆が混じった雰囲気に即された語り口なのかもしれないと自分で診断してみる。そういう診断すらなんの意味があるのだろうか、と奇妙な笑みを浮かべながらタイプをする両手を動かすことを止めたりしない。

神狩り」のあとがき、初版から30年たった後の文章において山田正紀は次のようにいう。「私はそのしょうせんはジャンル小説にすぎないものから、なにか非常に重要で偉大なものを感じ取らずにはいられないのだ」、と。とにかくだから彼は神について書くのだろう。神についていろんなヴァリエーションを描くことのできるSFという舞台で、時には正義の神であったり、時には嫉妬する神であったり、時には無常の神であったり、本人の宗教観にとらわれず、ただ本人の考える神についての多様な感覚をこれでもかというほど放り込んだ文章を山田正紀には書くことができる。ドストエフスキーの神、三浦綾子の神、トルストイの神、ロバート・A・ハインラインの神は個人にひとつしかいないが、山田正紀の神は彼が見たい数だけある。そして山田正紀は本人が自任するように、「想像できないものを想像する」人間なのだ。

そういう山田正紀の神についての作品の中に「長靴をはいた犬」というものがある。

しかし「長靴をはいた犬」という作品について述べる前に、その前の作品である「神曲法廷」なる作品を見てみる必要がある。東京地検の検事、佐伯神一郎は、昔は文学青年でダンテの神曲が好きだったこともある。最近は精神を病んでおり、休職中だった。そしてある日、彼は「正義は果たされなければならない」という声を聞き、それを神の声だと信じ、ある殺人事件の解決に挑む。だからこいつは電波なのだ、と言い切ることができる。作家が電波だから探偵役も電波かよ、とシニカルに突っ込むこともできる。だけどこの作品はある意味、ミステリーの根本的な問題−と一部では言われていること−の回答のひとつなのだ。そう、残念ながら電波ゆんゆんのこの作品こそがある意味回答なのだ、例の「後期クィーン的問題」とやらの。

小説の中の探偵は、自分の判断が正しいと、神のように他人を裁いても善いと確信することができるかという問題なのだが、ある意味、まったく無価値(だってそんなの「紙面の関係上、探偵は完璧という設定です」で終わっちゃうし)なのだが、しかし思考をもてあそぶという面においては結構面白い思考実験ではある。現実世界では一種のあきらめを導入し、法廷では「後期クィーン問題」などだれも論じたりはしない。人間は不完全で、人間が立証できる真相など限られているが、しかし犯人を見つけ裁くのが我々の司法システムである。だが、とにかく「神の声」を聞き、絶対的な真相をもう授けられている探偵なのだからそれに符合する証拠だけを集めて提示すれば、そこで事件は「正しく」終わらせることができるのだ。それが山田正紀の提出した「後期クィーン問題」への回答である。それこそ有名な川柳、「探偵は皆を集めて『さて』と言い」のごとく。無論、佐伯もその「神の声」とやらが自分の精神の異常のせいで起きた異常-精神分裂-なのかどうか悩むし、彼のいる東京は神曲における地獄に似せられる。だから彼は神に嫌われる人間のように、神を拒み、神を嫌う。だけど神の恩寵なるものは重力に似て、逃れることができない。(私自身はちゃんとした無神論者なんですけどね)

だったら、ここまでだったら別に「長靴をはいた犬」の書評ではなく、「神曲法廷」の書評として書いたほうがよかっただろう。だけど本稿において私が指摘したかった面は、「長靴をはいた犬」にだけ登場する望月幹夫の救済である。望月幹夫、新鋭の犯罪精神学教授。学術的な評価は高いが傲慢である。こういうことが事件と引用文を数個ならべたプロローグに続く、第一章の冒頭で語られている。主観を交えた三人称で。この書き方は実は、山田正紀のデビュー作でもある「神狩り」でも行われていて、ヴィトゲンシュタインの引用と「それは、薊でなければならなかった」から始まる彼の生前の姿の素描がプロローグとして、その次にくるのが第一章の島津の紹介部分になる。彼も望月と同じように学術的な評価は高い若手の研究家だった。島津は情報工学と言語学のエキスパートだが、望月と同じく傲慢で他人に評判が悪い。無論、両方とも男で未婚だ。

だが、「神狩り」は、論理階層的に人間より上にいる「神=真相」の姿を認識し、人間を嘲う「神=真相」と戦う島津の物語だった。だけどついに「神=真相」と本当の意味で戦うことはなかった。逆に「長靴をはいた犬」の望月は、神と人間の媒介である佐伯と知り合い、真相へ導かれる。まるで「神曲」の中のダンテのように。だから「神狩り」はあえていうなら「島津=望月」の敗北の物語だったが、「長靴をはいた犬」はかえって「望月=島津」が神へと至る物語になり、安易といってもいい和解と救済が演じられる。

私は救済の物語が好きだ。安易なら安易なほどいい。チープでありふれた、安っぽい救済の物語こそ私が好きで好きでたまらないものだ。チープでありふれた救済が、窓の外にあって、まるでドライブスルーかなにかのように、窓を開けて紙幣を差し出したらお釣りとともに出てくる世の中を夢見るのだ。長渕剛ではないけど、「賽銭箱に、百円玉投げたら、釣り銭出てくる人生がいい」と思う。
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2005年11月24日

対エスキモー戦開戦前夜:あるいはあの日、私は三回も風呂を沸かした。

「生きる人間の条件は同情心をもてるか否かということだ」 -ショーペンハウエル
「つ、つぎの戦争はエスキモーたちと闘う」-フランクリン


多分、これは水曜日の夜から金曜日の深夜までの物語だろう。「これ」というのは、サリンジャーの「対エスキモー戦の前夜」ではなく、私のごく私的な事情のことであり、許される限りフィクションを交えた、日常の報告である。

木枯らしに木の葉が擦れる音のようなものが聞こえ、私は深い連想作業から覚醒した。霰のような、雪のような、白い何かが強い摩擦音とともに降ってくる。ここ数日、特に乾燥していた草むらに当たり、はじけたようだ。薄い雲で覆われ、明るい黒(というのが実際にある)一色の空を背景に、霰、もしくは雪の礫、もしくは雪の核とでもいえる物体が三十秒ほど降ってきた。

私は、それまでバス停の前で、終わりもなく、始まりもなく、経過だけがとまることなく、ただ進み行く思考の流れに心を任せていた。まるで浅い夢のような、現と夢の境界線のような、まどろみの時間、それをまどろみと実感することもなく、流れる、否、ただ底にあって、そこにない、精神が淀み、ただ澱み。ただバスを待っていた。することも、考えるべき課題もなく、ただ突っ立て、過ぎ行く時間を過ぎ行く時間と認めていた。それまで、幾千もの夢幻や概念や他愛無い想い出の欠片が思考の水面に浮かび、現れては、消え、時間ばかりが無意義に過ぎていった。いったいどこからが想い出で、どこからが夢想なのだろうか。それを疑問と思わない、ただの耄碌な時間が、ただ波のように、そう波が打っては返し、果てていくことのない時間のように、しかし流れるままの考えに心をゆだねるのは決して悪いものではなく、時間が過ぎるのも忘れて物思いにふけることも時々…。

そんな時間だった。バスを待っていた。だけど雪が私の心を乱した。ただ30秒ほどの短い降雪だったが、私の意識は覚醒され、覚醒したままで、ただ、バスが来る前の五分間、ただ寒さの中で、より透明になった秋の空と、空に浮かぶ煌々とした月明かりだけを見ていた。震えることも忘れ、夕飯のメニューも忘れ、幸せすらも入り込む隙のない、ただの惚けた平静を保った。結局、覚醒したところで、時々、通り過ぎる車の音と冷たい空気以外の何もない。

やがてバスが来て、私は取り残された。多分、水曜日の夜のことだったと覚えている。土曜日の「対エスキモー戦開戦前夜」へと、私は、そして大学は、向かっていた。

「エスキモー」と彼らを呼ぶことは、無論、正しいことではない。ここで正しくないと言うことはJustではないということと、Correctではないということの両方である。無論、彼らの大学は、アメリカの北のほうにあるが、アラスカにあるわけでもなく、湖から運んで来られる水分によって十月の後半から大雪が降ったりしてもおかしくはない場所にはあるが、彼らが自ら「エスキモー」を名乗っているわけでもなく、「エスキモー」を崇拝しているわけでもなく、「エスキモー」に特別関係のあるわけでもない。「エスキモーは差別語か?」という論争に巻き込まれたくはないが、一応、現代米国社会において、「エスキモー」はPolitically Correctな言葉でもない。ただ、私の心の中で、彼らは「エスキモー」と名づけられているのだ。そう、それだけのことである。

「エスキモー」たちは私の住んでいる州のすぐ北のほうにある州の州立大学のやつらだ。やつらは、厭らしいことながら、私たちの大学より全国的な知名度が高い。各種ランキングでも私たちより高い場所にいるし、有名人だってあっちのほうがおおい。一応、こちらとしてみれば中部の両雄というつもりなのだが、世間的には独走するトップの「エスキモー」と、それを追いかける有象無象の魑魅魍魎たちのほうが正しいらしい。しかしながらわが校が彼らよりフットボールがうまいのは事実である。時々、負けたりもするが。大学フットボールのシーズンは秋の3ヶ月と短く、学生の身分と運動量からして、毎週末、土曜日にしかできないので、中部リーグ、所為TOP10は、毎年、同じ週末に同じ相手と一回だけ対戦することになる。たとえば、「エスキモー」とわが校は毎年、最後の試合をする。この試合に勝つほうが次の一年を通して威張れるし、こっちも「エスキモー」も30年代から続く、最終戦ということでフットボールでのライバル意識もあるし、TOP10の両雄である二校のうち、最終戦で勝ったほうが4つあるNational Championshipのうちのひとつに進めることになる確率が高いので、最終戦に向けての両校の雰囲気は盛り上がる。いや、「エスキモー」のことなんて理解できないので、そっちも盛り上げっていることにしてくれ、といったほうが正しいことかもしれないが、そんなことはどうでもいい。どうせ次の闘いは「対エスキモー戦争」になるはずだし、それが終われば負け犬=奴らなんてギャフンともいえないのだから、どうせ。

さて、話は変わるが、J.D.サリンジャーといえば、「ライ麦畑でつかまえて」という長編で有名だが、実は、私が思うに、長編はあまり得意ではない、というか、隠居にいたるまでの比較的短い作家生活(このことは後で述べる)の中で、彼が書いた、唯一の長編が「ライ麦畑でつかまえて」だったから仕方もないが、彼は短編のほうにその才能を持っていた。その中でも、「ナイン・ストーリーズ」、その名のとおり、9つの短編を収めた代表的(ベスト盤的といってもいい)短編集は、その収録作一つ一つのクオリティが高いことで有名であり、「バナナフィッシュにうってつけの日」や「対エスキモー戦争の前夜」や「笑い男」や「エズミに捧ぐ」などの名短編は20世紀後半の至る場所で引用されている。アニメ・漫画業界に限っても、「バナナフィッシュにうってつけの日」はそのまま漫画「バナナフィッシュ」のタイトルとメインコンセプトに、「笑い男」は、「攻殻機動隊 Stand Alone Complex」のいたるところにその影響力を持っている。

「対エスキモー戦争の前夜」がどういう話であるかを簡単に述べよう。2次大戦直後のニューヨーク、少女Aはある事情があって、お金持ちの友人Bのアパートに訪れる。そこで、彼女は何かの理由で神経をやられたっぽいBの兄フランクリンに会う。彼は戦争中は、中部某州(本文を読めばわかるけど、一応、この州名を隠すことにする)で飛行機工場で働いていたという。彼はすごく不器用な人間で、悪い人間ではないし、狂ったわけでもないのだが、話のピントを合わせることができない。そして彼はふとこんなことをいう。「We're gonna fight the Eskimos next. Know that? ...This time all the old guys're gonna go. Guys around sixty」(「つ、次はエスキモーたちと闘うんだ、知ってたかい?…今度は60歳以上の爺さんたちが戦う番だ」)とまるで自分も戦場に行ってきたかのようなことを言う。いや、多分、戦争に行かなかったのが負い目になっているだけだと思うのだが…それは別の話。

さて、この文章を書いている私が彼(誰かとは聞かないでおくれ、野暮なことは、今だけはいらないから)に好意を抱いていることは明白である。彼は私のいる「中部某州」で、「20代前半」をすごし、「精神の若干いかれた」やつだった。不器用な面も私と同じで、こんなにシンパシーを感じることのできる人間がそういない。

もう一度、うちらの憎き「エスキモー」たちのことについてのこと。

「対エスキモー戦の前夜」-その年がアウェイの場合は金曜日にはチームと応援団が「エスキモー」のホームグラウンドに移動しているので、正確に言うと木曜日の深夜になる-に学校の中央にある小さな湖にダイブ(Jumpというのが正しいが)するのが誰も主催したわけでなく、誰に命じられたわけでもない伝統行事である。言い伝えによると、この行事は「対エスキモー戦」がシーズンの目玉になる前の1902年ごろから始まったというので、もう100年以上の伝統を誇る立派なお祭りだ。祭りとして何かを投げ入れるのは、1895年に最初の記録があるとのことなので、この行事はもう3世紀にわたるわが校の伝統ともいえる。無論、伝統もときによっては変わる。全盛期には、いわゆる「ファントム・バンド」なる即席のマーチングバンドが校外の大通りを占拠して解放区っぽいものを作り上げたりもした。それが禁じられ、2002年の悪夢があったのだが(私自身は例のことを全然悪夢とは思っていないのだが)、それもまた別の話になる。学校側も正直、伝統行事としてのダイブを煽ったりしている。まぁ、なんだあのポルトガルの3F(Football, Fatima, Fado)政策みたいなことをやっているのが見え見えで、学生の中でも一部のPolitically Fxxxing CorrectなFxx Axxたちは、そのDxxx Mxxthをぐちょぐちょさせながらくだらない、「学校側はエスキモーたちを嫌悪する生徒側の感情を煽ってストレスを解消させようという正しくない…」なんていう非常につまらない意見を学生新聞(無料)で述べたりするが、それも含めての11月の狂騒ということなので、まぁ、どうでもいい。「エスキモー」相手に同情心なんていらない。どうせ戯れの嫌悪だ。あっちにも友人はいる。

今まで、私は飛び込んだことがなかった。これで3回目だったけど、過去の2回は、傍観者のような立場だった。煽って、煽って、ただ煽って…、という立場で、一人暮らしのくせにカゼにでもなったらどうしようという考えがあった。だけど今年の私は、私は悩んだ末、飛び込むことにした。飛び込んだ。ここがロードスでないとしても、跳ぶことにした。群衆の中、轟音の中、夜のキャンパスで、水の飛ぶ音だけが妙にくっきりと聞こえ、次の瞬間、決心よりも先に、体が飛び込んだ。無論、すぐ出てきた。そして、凍えながら、タオルに包まれ、空の漆黒さを理解できないことを嘆きながら、ただ足踏みをしていた。どうしても止めることのできない、この人間的な震え。表面的な同情心などなくとも、自覚がなくとも、私はただ震えている。人間的な根本(ファンダメンタル)をやめることができない。フィードバック回路に沿った機械的反応だと言うかもしれないが、知れないが、これこそ正真正銘の人間の根本なのだ。どうしようもない惻隠之心などなくとも、人間はただそれだけで人間でいることができる。それこそが悪夢のような人間性なのだ、と気取ることができるのが、二十台序盤の私たちであり、その気取り、無茶な示度、無意義な努力が私たちの象徴なのだ。なんてくだらない、まるで小説の人物かのような、棒読みのマニフェストを脳みその中だけで、歯はガタガタ震えていたので、舌をかむのが怖く、でダラダラと脈略もなく思い浮かべながら、私は用意されていた暖を取って、友人の車で家に戻った。時計を見たとき、針は、もう12時を過ぎていて、まさしく「対エスキモー戦争の前日」となっていた。

最後に付け加えたいことがある。サリンジャーは今でも生きているが、50年代の中盤から数十年、山の中の小屋にこもって新作を発表するところか既存短編を編んだ短編集を作ることも拒んでいる。スティーブン・キングなどの報告によると、その後も創作自体は続けていて、小屋の金庫には、未発表「生」原稿がどっしりと積まれているそうだ。(なぜキングがそんなことを知っているか、ということは忘れてしまったが)だから私は時々、サリンジャーのことを思い出して、にやりと笑う。そう、にやりと笑う。1919年、私の母方の爺さん-5年ほど前に亡くなった-と同じ年のサリンジャーに未来なんてない。願わくば、彼の死が安らかで、(金庫をぶっ飛ばすほどの)爆発力の無きものでありますように。(笑


追記:試合のほうは接戦の末、終了間際に逆転。わが校が勝った。いちいち付言するのが恥ずかしいほど当たり前、前もって決まっていたも当然な結果なのだが…一応念のため。

追記:ハンガリーのドメインに、サリンジャーの短編集未収録作を集めた(正確に言うと、アメリカの大学生たちの海賊出版物を流用した)サイトがある(らしい)ので、紹介しておこう。http://terebess.hu/english/salinger.htmlがそれらしい。私は決して、このサイトを訪れたり利用したりしたことがありません。

参照文献
ナイン・ストーリーズ」 J.D.サリンジャー
ライ麦畑でつかまえて」 J.D.サリンジャー
サリンジャーをつかまえて」 イアン・ハミルトン
うちの大学の新聞(w
Wikiquote.org
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2005年11月19日

意識の科学は可能か:サル、脳、意識

そういえば数ヶ月前、「Monkey Business:Swinging Through the Wall Street Jungle」という本を読んだことがある。80年代を風靡した投資銀行DLJの内幕を元職員の二人が暴く、という内容で、Finanacial Sector入りしたい人たちには必読書。しかしながら投資銀行などという道をあえて選んだ人ならこの本にでる例くらいで就職をあきらめたりはしないだろう。(無論、中に入ってからのことは全然、まったくわからない)

さて、この文章が扱うのは、そっちのMonkey Businessではなく、別の、二つのMonkey Businessである。ひとつは売春に、もうひとつは脳の実験に関する実験であり、両方とも形而上学的にも物理的にも大変意義のある実験であった。


先日、気鋭の経済学者であるSteven D.Levittとジャーナリストでベストセラー作家のStephen J. Dubnerの講演にいってきた。二人は、経済学者であるLevittがいままで注目されていなかったデータや使い古されたデータを新鮮な視線で捉え、Dubnerがそれを一般向けの文章にするのを手伝うという役割分担で、アメリカの大学街とアマゾンでは一大ベストセラーとなった「Freakonomics」を共同で書いたのである。FreakonomicsはNew York Times Magazineに今でも連載されており、もちろん単行本に未収録の記事もある。そこらへんはFreakonomicsのホームページで確認することができる。この文章は「Freakonomics」の二人の講演レポートではないので、本筋に戻りたいと思う。

Freakonomics」の単行本に収録されていないネタにYale大学のこちらも若手経済学者のホープであるKeith Chenによるある実験のお話がまとめられている。かのマルクス@ヒゲ面のユダヤも言っているとおり、お金とは奇妙極まりなきものであり、最近の経済学では往々にして忘れられたがお金の本質を探ることは経済学にとって一大事なのだ。そして私とそう年の違わないわれらKeith君@YaleのProfは、お金問題に対する最終解決を成し遂げるための一兵隊さんとなるために、人類と類似した-「脳は小さく、セックルとメシのことしか考えていない」-サルにお金を渡し、それと交換に食物を与える一種の擬似的な貨幣経済を作り出す。そうするとまことに人間社会と似たようなシステムができあがる。彼らは時にはお金を奪い合ったり、時にはほかのサルが持っている自分の好きな食物とお金を交換したり、プレゼント(下心込み)したりする。無論これは実験なので、時々、ギャンブルやインフレーションを導入してみたりして消費者(=おサルさん)を愚弄してみたりもする。ちなみにおサルさんたちはハイリスクが好きらしい。サルにナニを教えるとナニにはまって死ぬまでナニするというナニっぽい話の信憑性がこれでナニゲにアップ。

この経済学的なエデンは結局、盗みと売春で汚染されることになる。それまでは通貨の量は調整されていたが、ある日、あるおサルさんが研究員に襲い掛かって、研究員が賄賂でそれを潜り抜けたとき以来、おサルさんたちのエデンは暴力と盗みに支配されることになった。無論、食料の値段は変わらないし、おサルさんに食物以外の重要な商品がなかったので結果的に通貨量の増加は新たな消費を生むことになった。最古の職業、売春である。行為の代価としてお金を貰うことが職業というならば、まさしくこれはおサルさんにおける最初の職業である。

この実験は、経済とリスクに関する諸概念は人間特有のものではないということを示す。そして複雑な概念を築き上げフェティシズムに陥るのはなにも人間ばかりではないということだ。だとしたら人間とサルの共通点はなんだろうか、私は脳の構造だと睨んでいる。このことが二番目のMonkey Businessと関連がある。


意識の科学は可能か 」という本は、2000年の第64回日本心理学学会大会でおこなわれた「意識の科学は可能か 」という座談会で行われた講演を基にしている。

意識の科学は可能か−苧阪直行
知覚から見た意識−下條信輔
身体から見た意識−佐々木正人
言語から見た知識−信原幸弘
無意識の探索から意識を探る−山中康弘

この5つのエッセーが220ページ余りの本に入っていて、知覚心理学や脳物理学らの権威たちが自分の最新の興味分野を話すという形をとっていて、なんとなく雰囲気につかりたい、という層にアピールする。この文章で特に扱いのは、2番目の「知覚から見た意識」だ。下條はCaltech(カリフォルニア工科大学)おキョウジュさんで、講演のスタイルも若干アメリカっぽく、いいたいことを数個かのブロックにまとめた後、各ブロックの最初と最後に主題文章と要約文章を入れる。だからこの人の文章は、各章のタイトルと冒頭の文章だけ拾っていけば、このおキョウジュさんの実験や主張の妥当さはわからないけれど、おキョウジュさんがなにを言いたいのかはわかる。

下條のおキョウジュさんは、今までの主流だった行動主義、すなわち「心の中の主観的なことが直接わかるはずがない、だから外からの刺激とそれに対する反応だけ研究すればいい」がお嫌いらしい。内面的なこと、どう知覚したか、どう思ったかなども十分科学的でありえるとおキョウジュさんは思っている。無論、おキョウジュさんも行動主義的な方法論をすべて否定しているわけではない。「科学的実験」を心理学の世界にもたらした行動主義は、実験を必需とする認知科学に欠かせないものである。ただ、時代が変わり、行動主義という方法論がちょっとずつ行き詰まり、今では実験を通じて心理を内側から見ることができるというのが、言い換えるなら心理と物理は歩み寄れるし、客観と主観はそれほど違わないというのが、おキョウジュさんの主張だ。

おキョウジュさんは、「網膜像に明示的に与えられている情報以上のものおを見る、知覚の特性」と「網膜への物理的刺激が消えたあとの知覚現象」に興味を持つ。実際、脳の中のいろんな部位は、それぞれの役割を持つが、ゆるやかでフィードバック回路が無数に組み込まれた連携も忘れていはいけない、まったくもって複雑な構造を持っている。簡単に言うなら、脳の一部位とある知覚が一対一でないことで、むしろもっと複雑に入り組んだ生き蠢くめいろなのだ。だけど私たちは、パソコンのCPUや基板をばらして解析することとは違い、似たような形の細胞が集まっているひとつの大きな塊に過ぎず、ばらすことも(生前には)できない。だからfMRIやPETなどのいわゆるイメージングの手法がとられたりする。

そしてMonkey Businessが登場する。

人間の脳をばらすことができないから、それじゃ人間の脳と構造的に類似したおサルさんの脳で実験しましょう、となる。そして行動主義の視点からはありえないが、精神の中側をある程度研究できる現代の技術によると、おサルさんも人間っぽい思考ができるらしい。それは上の「最古の職業@おサルさんエデン」にかんする実験でも明らかにされていて、私たち人間は孤独ではない、ということになる。瀬名秀明あたりが5年ほど前に脳とおサルさんとおカミさんについてのわけのわからない小説(「Brain Valley」)を書いていて、それから瀬名はロボット(「ロボット・オペラ」)へとその関心を移すことになる。それはある意味、象徴的なものであり、人間の同伴者を捜し求めているという面で非常にスジが通っている。

ところで、この実験に使われるおサルさんのなまえがすごい。「覚醒サル」なのである。なんか先駆者として人間支配から脱しそうな名前ではあるが、単に刺激に反応するという意味での覚醒らしい。この中の「両眼視野闘争」いうのもあるし、とにかく私をワクワクさせる名前が多い。だけどこの「両眼視野闘争」なるものが人間とおサルさんとの類似を示すことになる。専門的なことはおキョウジュさんのテキストを直接読んだほうが早いから端折る。この実験の手法がまた面白い。おサルさんの脳に電極を「さして」刺激を与えて、ニューロンをしらみつぶしに探す、というごく平凡な猿体実験だ。私的には、この「さして」というのが、「挿して」なのか、「指して」なのか、「刺して」なのか、「射して」なのか、「注して」なのか、「鎖して」なのか、それとも「然して」なのか(最後はやっぱ違うでしょ…)疑問なのだ。

素人の私にはちんぷんかんぷんな話がちょっと多かったが、それは仕方がない。それが素人の正しき道なのだから。

しかしながらこの本にあることをすべて鵜呑みにしてはいけない。脳というフィジカルであり、同時にメタフィジカルでもあるこの領域においては、いまだなにもはっきりしたことなどない。脳にノーといえない、こんな世の中じゃ、ポイズン、なんてくだらない駄洒落でも言いながら肴の酒にでもすればいいのだ。そして、おキョウジュさんのCaltechからの賃金の一部はあの電極とMonkey Businessからきたことを忘れて、「お人間とおサルさんはお仲間」とうれしげな笑みでも浮かべればいいんだ。そのときは、仲良く記念写真を撮ることを忘れないことにしよう(ちなみに動物実験大賛成派です)。


私にも、おサルさんだったころがある。それが他者の概念がぼんやりと、だが確実に築かれ始めた幼児のころなのか、爆発的なパワーで野原(i.e.近所の公園)を走り回っていた童の頃なのか、それともご立派なセイ少年だった若き日々のころなのかは、わからないが、私にもおサルさんだったころがたしかにある。そしていまや立派な自己責任を持つ成人となったわけで、もうすぐ学校を出て、社会の門を潜ることになるわけで、それでも自分はそのおサルさんだったころとあまり違わないことに気づいてしまったわけで…それが今回のテーマなわけで、ちょっとやるせない気分になったところで今日3回目のお風呂に入ることにしよう。なぜ一日に3回もお風呂を沸かすことになったのかの顛末についてはいずれ「白紙状態」のほうに書くことになるだろう。




追記:あるアナロジーが紹介されていた。(かいつまんで要約)
-知覚意識の「神経対応」という言い方に疑問がるのです。
-指演算の得意な人がいて、たまたま指に怪我をして演算ができなくなった。さて、この人の指演算の中枢は指だと断言していいか
-脳内でそこが壊れたから演算ができなくなったからといって、それを演算の中枢というのはおかしいのではないでしょうか。
-他の場所もじつはそこに至るプロセスとして必要不可欠であり、その結果がその部位に集中的に「析出」しているだけ、
-最近、盛んにNCC(意識の神経対応メカニズム)という言葉が聞こえます。フランシス・クリックあたりが好きですね。
-NCCがないかもしれない、だけどこの作業を続けていたら何か別のものが見つかるかもしれない。

-知覚のより本質的な内実(クオリア)、自分にしかふれることができないという特性そのものに、これまでの知覚研究はまったく肉薄していない。
-しかし、知覚の心理物理実験というものの、自他の相互理解に依存するという構造上、この問題は原理的に、はじめから抜け落ちざるを得ない。
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2005年11月13日

緋色の研究:The Understanding of Six Napoleonics in A Study in Scarlet

1.The Great Game
一年半ほど前のことだろうか、英文学の授業でヴィクトリア朝文学としてシャーロック・ホームズを一ヶ月くらい丁寧に読む下したことがあった。The Adventures of Sherlock Holmesの初版本に頬擦りできたことが一番の収穫だとおもうのだが、あえてもうひとつの成果を挙げるとするならば、シャーロック・ホームズとワトソン博士の友情がいかにして作り上げられ、そしてどういう小説内効用を持ち、いかにして反復と模倣の対象となったのかについて思う存分に考え、書き散らかすことができた。まったくといっていいほど典型的なオタク的情熱をもって私は聖典(アーサー・コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズ登場作品の通称)を読んでは読み返し、撫でては撫で返し、捲っては捲りなおした。そのときの私は、The Book(正典)を片手に握り、もう片方の手でアイリーン・アドラー萌えを果てしなく書き綴りながら、ただただIt's Elementary, My dear Watsonを口ずさむ清く正しいオタクであり、その精神の純粋さはいかなる悪にも侵犯されることなき清さを保つことを苦としなかった。

聖典、すなわちシャーロック・ホームズの登場する60の物語(長編4、短編56)は、あくまでもリアルのできごとにちょっとばかしの脚色をしたものであるという立場をとり、日々大筋や細部や設定や時代背景について訓詁的なアプローチで論じる一派をSherlockian、その学問をSherlokianaという。学問といっても学校では教えてくれない(という建前になっている)し、SherlockianのコミュニティでもThe Grand Game(偉大なる遊戯)という言葉を使い、遊戯性を際立たせ立場をわきまえている。だから別に現実とフィクションを混同するキ印の集まりではない。

わたしも時々、そういった視点を玩ぶことがある。この文章は、そういった遊びの延長戦だとおもっていただきたい。もともとはもっとまじめな文章を書こうとしたのだが、先日6セット目のシャーロック・ホームズ全集を買ったもので、新しい全集の注釈を眺めていると従来浮かばなかった(ごくホームズオタク的な感覚において)面白いアイデアに思い当たったので、こうやって注釈の注釈的な位置を持つ文章をしたためることにした。

あえて題名を付けるのなら、「あるいは緋色の研究における六つのナポレオン(誇大妄想患者)的想像」とでも…。




2."I keep a bull pup": Watson, what a liar
ホームズ物語における不思議のひとつに「ブルドッグ」の問題というのがある。シャーロック・ホームズは安い引越し先を探しているジョン・H・ワトソン医学博士を紹介され、自分とルームメイトにならないかと尋ねる。ホームズはもうベーカー街にある下宿に目をつけていたし、当時ワトソンも割安な新しい住居を探していたので、(物語的要請もあり)彼らの交渉は、実務的というよりもキャラクターの性格を提示すことに終始する。その中でホームズは自分はタバコも吸うし、気難しいところも歩けど、大丈夫かと聞く。それに答えて、ワトソンは自分もブルドッグの子犬を飼っているので、面倒をかけることになる、だからお互いそういう悪癖を気にすることはない、と答える。しかしながら、ワトソンのブルドッグはその後一回も登場することはない。

無論、下宿で犬を飼う事を禁じられたかもしれない、しかしながらChapter7.においてジョン・H・ワトソンは以前請け負ったハドソン夫人の犬の安楽死を実行する。すなわち犬がいてはいけない家ではなさそうだ。下宿に移る前に、それか移った直後にブルドッグが死んでしまったかもしれない。しかし私はそのどちらにも賛成しない。では、ワトソン博士のブルドッグは何処へ行ったのだろうか?私の仮説は、「ワトソン博士はもともと軽度の虚言癖があるということだ。彼は漠然とした必要性に応じて小さなうそをつくタイプだ、ということだ。彼にブルドッグなどいなかったし、大体アフガニスタン帰りで、退役後長い間ホテル暮らしをしていた元軍人がブルドッグを飼っていたということ自体が不自然だ。だから私はワトソンがありもしないブルドッグの存在をでっち上げたと思う。

ブルドッグの存在をでっちあげる理由など無数にある。ワトソンは厳密な論理の上に築かれるべきである探偵小説の記述者としてはとても適したとはいえない健忘の習慣を持っていた。「The Valley of Fear(恐怖の谷)」においてジェームス・モリアティ教授の名をちゃんと聞いたワトソンがその後の、「The Final Problem(最後の事件)」においてモリアティ教授の名を忘れていたことや、各種の事件において日時の辻褄が合わないことが多いことなどがその証拠してあげられる。無論、ワトソンが自分の身元を隠し通すためにそういった不自然な表現を使うという仮説もあるが、やはり私はワトソンはただの健忘だという説を支持したい。大体、ワトソンは(作中の)自分の名前すら忘れてしまって、ジョンとジェームスを使い分けるようなどうしょうもない、忘れん坊なのだ。(無論、John H. WatsonのHがジェームスのスコットランド風発音のHamish頭文字だという説が一番強いが、一体、ワトソンかワトソン夫人がいつスコットランド人になったのか誰も教えてくれない)

無論、私たちはホームズ物語がワトソンによって整理され書かれたストーリであり、その間、ワトソンに不利なことや彼が必要でないと思ったことが削除およびに省略をしていたことは十分ありえる。だから、こういう考え方をすることも出来る。もともと、毒薬を飲まされたのはハドソン夫人の犬ではなく、ワトソンのブルドッグなのかもしれない、という疑問が浮かぶ。自分の愛犬を殺した(安楽死の形をとったにしろ)ことを引きずって、フィクションを書き記すときに脚色したと考えてもいい。だけど私にはそれもおかしいと思える。だって、そんなにいやなら最初からブルドッグのことなんて書かなければいいのだ。別に日記をそのまま出版したわけでもなく、リアリティショーをやっているわけでもなく、事件が終わったあと、十分な時間をおいて、書き綴るというワトソンの書き方のスタイルからしてみれば、ブルドッグのことを書かなければいけない理由などない。

だから私は、ワトソンにはもともとある種の虚言癖があったと思うのだ。ワトソンは退役した後、ダウンタウンのストランド街の高級ホテルに長期滞在し、自分の収入以上の暮らしをしていた。彼には身内など一人もいなかったので、財政が破綻しかけたとき、やっと下宿探しを始めた。そこで出会ったのが、ホームズで、実はワトソンには安い下宿をなるべく早く見つける必要性があった。そしてホームズは若干奇人ではあるが、今すぐ入居可能な下宿を確保していた。実際、その次の日から二人は下宿を始める。だから実は、ワトソンには小さな嘘をついてでもホームズの機嫌をとって、早く下宿を見つけることに強いインセンティブがあった。だからホームズが、自分はこんなこんな悪癖があるけど大丈夫か、と聞いたとき、ワトソンは自分にも悪癖はあるので、気にしないで早く下宿に引っ越そうということを言う必要があったのだ。だから話の成り行き上、誰も傷つくことのない小さな嘘をひとつ、ワトソンはついた。


3. Sherlock Holmes-his limits #1
Howard Haycraftは推理小説評論の古典である「Murder for Pleasure(娯楽としての殺人)」で、民主主義の発展した国々でだけ推理小説は大衆に支持される、という仮説を打ち立てる。実際、罪を犯したものはそれが誰であろうと法の前で公平に裁かれるべきであるという民主主義者(この場合は、19世紀的Liberal Democrats)の登場が推理小説の登場と重なることは決して不思議なことではない。そしてその民主主義的な精神は、科学の精神にバックアップされていて、各種の人文学も科学的(反証可能性を持つ)方法論において再編されようとしていた時代だった。そして最初から科学的方法論、すなわち観察と分析の重要性を繰り返していう探偵シャーロック・ホームズおよびその後継者たちはまさしく科学と民主主義という新しき時代の申し子だったのだ。だから私たちがシャーロック・ホームズをかの時代の自由主義者であり、民主主義者であったと推論してもおかしくはない。なぜなら彼こそがヴィクトリア朝イギリスの自由民主主義者のシンボル的存在だからだ。

さて、なぜ私がこういう無茶な論をたてかというと、この文章がナポレオン的な誇大妄想を目指しているからでもあるが、もうひとつの理由は、ワトソンによって作られた「Sherlock Holmes-his limits(シャーロック・ホームズの限界)」という図表の間違いを立証する考えを見つけることが出来たからだ。「Sherlock Holmes-his limits」においてワトソンは、彼の新しい同居人をいろいろ観察してみたところ、「文学、哲学、天文学の知識なし…などなど」という結論をだす。しかしながらオックスフォードかケンブリッジのどちらかを出たといわれているシャーロック・ホームズが文学と哲学の知識に欠けるはずがない。当時のオックスフォードもケンブリッジも文学と哲学の素養なしで卒業することなど無理なカリキュラムを持っていた。日本語の本では、「インド植民地官僚」(本田毅彦)という本でそこらへんのことがうまく書かれている(48ページ)と思うのだが、「古典学」こそが当時のオックスブリッジ(Oxford+Cambridge)の花形科目であり、それを無視して卒業するのは至難の業だった。(これについて言及する人がいなかったので、自分でも自信がなくなるのだが、たしかそうだったはずだ)シャーロック・ホームズは「The Adventure of Three Students(三人の学生)」の冒頭において、ケンブリッジ(と思われる学校)に数週間滞在しながら、Early English charterの研究をしていた。いくらアマチュアでも、人文学の教養がない人物にどうして初期イギリスの憲章の研究ができるだろうか。そして「The Adventure of Three Students」には、(たぶん特定の専攻とは関係ないと思われる)奨学金を受け取るための試験の科目としてギリシア語がでる。これは必需科目であり、このことからもギリシア語を含める古典学の当時のオックスブリッジにおける重要性を理解することは出来るだろう。

新しく同居人になったホームズのことをよく知ろうとワトソンはいろんなことについてホームズに聞く。ワトソンがThomas Carlyleの文章を引用したとき、ホームズはCarlyleが誰かと無邪気に聞いたとワトソンは書き、おそらくそれがワトソンをしてホームズの文学の知識が足りないと思わせた理由だろう。たしかにCarlyleは19世紀のイギリスに住む常識的な中流階級ならほとんどの人がその名を知っていただろう有名な作家である。新聞を切り抜いて人名カードを作っていたホームズが彼の名を知らないということは、Moriatyの名前を忘れていたワトソンよりも健忘が激しいのではないのか疑われても仕方がない。Carlyleといえば友人のCharles Dickensと同じくらい有名だった人だ。だから多くのSherlockianたちがこの問題について悩み、ある人たちは「この物語の背景となる1881年はCarlyleが死んだ年で、ホームズは彼の死を悲しんであえて知らぬふりをした」などといった仮説を立てる。しかし私が思うに、ホームズはCarlyleが大嫌いだったのだ。Carlyleという人間を心の底から嫌っていたと私は思う。

若田部昌澄の「経済学者たちの闘い」は、経済史上のマイナーな人物たちと現在の日本の状況をうまく組み合わせた名著だが、その中でCarlyleについてのくだりがある。Carlyleこそが経済学を「陰鬱な科学(Dismal Science)」とよんだ最初の人物だということだが、その理由がなんともいえないのだ。若田部の本によると彼が経済学を人間味のない陰鬱なもの呼ばわりした理由は、経済学者たちが理性だけで行動する経済的人間なるものを想定し、奴隷制度に反対し、既存の「正しい階級秩序を前提とせず、市場の需要と供給によってものごとが決まるという経済学の原理そのものを彼が「陰鬱」とみなしていたからだった」(151ページ)という。Carlyleこそが奴隷制度支持の代表的な人物であり、経済学に代表される平等主義的で科学的な思考を退けようと努力し続けた人物だったのだ。実際、経済学者で自由主義者だったJohn Stuart Millは、Carlyleに反対した。だからこそ自由主義と民主主義の象徴のようなホームズは彼を嫌い、彼の名前を知っていることすら否定したがっていた。無論、後の彼ならばワトソン相手にそんな野暮なまねはしなかったのかもしれない。だけど彼らが知り合って間もないころのことだったのだ。

大体、Chapter5でダーウィンを引用したように、彼は同時代人たちをよく知っているのだ。


4. Sherlock Holmes-his limits #2
続いて、彼の「天文学」の知識を見てみよう。文学・哲学とは違い、ホームズが自然科学を知らなったといっても私は驚かない。ただ、「緋色の研究」においてワトソンがそれまでは天動説を信じていて、地動説を知らなかったホームズにそのことを教えてあげたとき、ホームズは忘れたいといった。その理由を尋ねるワトソンにホームズは人間の頭の中は引き出しのようになっていて、不要なものはちゃんと取り除いてやらないと記憶力がパンクするという旨のことを言っている。しかし残念ながら彼は自分の言ったことすら忘れてしまうかわいそうなやつだったのだ。

「The Adventure of Bruce-Partington Plans」においてホームズは兄のMycroftの訪問を星たちの動きに擬える。「Greek Interpreter」では、日蝕のときの傾斜について語る。無論、日蝕の傾斜について語れる人が地動説およびに天文学の基礎知識を知らなかったとは信じられない。無論、彼自身がワトソンに言ったことを覚えていて、ワトソンが本に書いたことを覚えていたら、事件解決に関係のない上記二つの会話でヘボなことをするわけがない。だけど彼は自分で言ったことも忘れてたので自分の「天文学に無知」なキャラクター設定を忘れて、つい口を滑らせてしまったのである。

だから私たちは二つのことを知ることになる。ホームズは別に自分で言ったこと(必要ないのはすべて忘れることができる)が全部できる超人ではないこと、そしてホームズは案外面白いやつかもしれない、ということだ。無論、ホームズがワトソンと出会う前の話である「The Mugrave Ritual」で、「天文学者たちのいう個人的差異」という表現を使う、けどこれも実はホームズがワトソンに昔の事件を語るという体制をとってるから、ホームズが昔から天文学に通じていたということにはならない。残念、だけどホームズが忘れん坊であることの証明にはなる。なんといってもワトソン相手に天文学の知識を開かしているのはいくらなんでもダメだろう。過たぬものなどこの世にはいないということで、勘弁してあげるつもりですけどね。



5. Whether the "Study" means "Study" or "Study"
A Study of Scarletの日本語版の題名には大きくいって二つの派閥がある、らしい。「緋色の研究」派と、「緋色の習作」派の二つ。私は無論、「書斎」派なのだが、自説の説得力のなさは知っているので、あえて上記の二つから選ぶとすれば「研究」のほうを選ぶと思う、というか、「A Study of Scarlet」がなぜ「緋色の習作」になるのかが理解できない。両方の題名に「緋色」は共通していて、これは「Scarlet」の訳語なのだが、問題になるのは「Study」のほうである。これを「研究」と解釈するか「習作」と解釈するかで違いが出るのだが、だったら、なぜこの作品が「緋色の」Studyという題名を持つことになったのか考えてみよう。最後の章においてホームズは、事件解決の功をすべて警察のものとする新聞記事を読んだ後に、「That's the result of all our Study in Scarlet」(これこそが私たちの緋色の研究・習作」の結果です)という。これだけでは、ホームズ・ワトソン組の初めての冒険を習作と呼んでいると解釈することが出来る。そして「I might not have gone but for you, and so have missed the finest study I ever came across: a study in scarlet, eh? Why shouldn't we use a little art jargon.」というくだりの「art jargon」を美術用語といい「習作」派は自説を強調するが、しかしながらart jargonならちょっと芸術っぽい言葉使いと解釈してもおかしくはない。むしろ、finest studyをmissしたかもしれないという表現のほうが重要なのだ。チャンスを逃して研究をすることが出来なかったことをmissというのはわかるが、美術的な習作をmissするというのは感覚的におかしい。(私だってNativeではないけどね…)ホームズが科学的探偵法なるものを著したことを物語の序盤で提示されたので、習作よりも研究のほうが近いのではないだろうか、と私は思う。ちなみに「緋色(朱の)エチュード」という説もあるが、エチュードならStudyなどと書かずに素直にエチュードと書くのが普通です。


6。ワトソンはいつ亡くなったのか
ワトソンは間違いをいっぱい犯した。彼は数人もの嫁を娶ったか、もしくは彼女らのうちの数人の名前をちゃんと覚えていなかった。いつも日にちについて間違った記録をした。科学的な推理の真髄を見せることよりも、些細か興味本位の事件ばかり書いてホームズにしかられたりした。しかし、彼はいいやつだった。だから私は、こう思うことにした。アーサー・コナン・ドイルは、ジョン・H・ワトソン医学博士の死を無視した。ワトソンは序盤に死んでいるのに、文芸エージェントのアーサー・コナン・ドイルはその死をなかったことのようにして、自分でホームズ物語を書くことになった、と。多分、アフガニスタンでの負傷のせいでワトソンは死んでしまったのだろう、それがいつかはわからないが、「The Final Problem(最後の事件)」の前後だったのかもしれない。だから「最後の事件」はホームズの死として書かれているけど、実際はワトソンの死で、もしかしたらホームズもそのごろから失踪していたかもしれない。実際、「空白の3年間」を経て「The Adventure of The Empty House(空家の冒険)」で復活した後のホームズは以前とかなり変わった人物として描写されているので、実はMoriaty教授がホームズに成りすましているという説まであるのだ。だけど渡しは、「The Final Problem」が書かれる前にワトソンが死んで、ドイルは自分でホームズの記録役になろうとするがホームズはそれを拒否し、引退したか肖像権を主張し、ドイルの野望を一端砕かした。だけどホームズは海外へ長期間の旅に出て、ドイルは勝手に「The Final Problem」を発表し、ホームズを死んだものとする。だけど旅行から帰ってきたホームズは、実在の自分が生きているのに人々は自分が死んだと思い込んでいることに驚き、自分が生き返った物語を書くのに協力する、といったふざけた妄想をするのがSherlockianなんだろう。

「If there is any thing pleasant in life, it is doing what we aren't menat to do. If there is anything pleasant in criticism , it is finding out what we aren't meant to find out」(人生に楽しみなるものがあるのなら、予測しなかったことをするということだろう。もし批評というものに楽しみが存在するのなら、たぶん誰も妄想できなかったことを思い付くことくらいだろう)とかの高名なSherlockianであるKnox神父も言っている。私はそういったなんでも自由にできるLegoみたいな稚気あふれる自由さがすきなのだ。GNUの精神よりも、アメリカ憲法修正2条の精神よりも、多分私の打ち出すことのできるいかなるテーゼ(行動綱領)よりも。そして輝かしいときを知らず、僕は黙ることすら覚えることなく、ただ過ぎ行く奇跡を逃し、立ち尽くし、玩ぶ。
posted by 白紙状態 at 11:48| Comment(3) | TrackBack(0) | Mutter in the Reading Room | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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